<1年を振り返って>古代史研究 遺跡立地を山並みから把握

古代史研究者、井上香都羅氏は、銅鐸(どうたく)出土地や古墳、神社はそこから見える神山を拝する祭場と考え、おむすび形の山の両脇に山並みが控え左右対称になる神山の眺めを全国調査に基づき確定した。神社や遺跡を巡るとその眺めが見つかる。

井上氏は平成9年、遺跡の立地を山並みから把握するこれまでにない画期的な業績を「銅鐸『祖霊祭器説』 古代の謎発見の旅」(彩流社)にまとめた。神山を望む場所が、この世とあの世を結ぶ接点になっていて、「山に宿った祖霊を、年に一度か二度、麓の山を正面に拝する場所に招いて、祖霊の祀りを行った」と考える。

同書は冒頭、「昭和34年、私は当時長崎海上保安部の巡視艇に乗り組む海上保安官でした。長崎港内の夜間パトロールに出動準備中、船内に充満していたガソリンのガスに火花が引火、大爆発を起こし、このとき両脚を爆風でやられ、病院で大腿部から切断してしまいました。25歳のときです」と記し、神山研究は同60年ごろから。古代史への関わり方も独特だ。

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多気郡明和町竹川の斎宮歴史博物館は同館南の飛鳥時代の初期斎宮跡の発掘調査で、方形区画(東西約40メートル、南北55メートル以上)と、それと向きをそろえる内部の大型堀立柱建物跡1棟を発見し、飛鳥時代の斎王宮殿域が分かった。

区画は北から東に約33度傾き、約1・5キロ北の同町坂本にある前方後方墳「坂本一号墳」とほぼ同じ向きだった。傾きの先には大紀町滝原の浅間山の三角形が見え、麓には伊勢神宮内宮の別宮、瀧原宮がある。

日本遺産「祈る皇女斎王のみやこ斎宮」の一つ、佐々夫江行宮(ささふえあんぐう)跡(同町山大淀)から南を見ると、朝熊ケ岳と鷲嶺を頂点とする左右の山並みの真ん中に伊勢神宮内宮の神域を含む山があり、翼を広げた鳥に見える。

朝熊ケ岳と鷲嶺の山頂間だけで10キロ近くあり、壮観。伊勢神宮の起源を説く「倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)」によると、ここで天照大神(あまてらすおおみかみ)は「この国にいたい」と言って鎮座地が決まった。

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死後の霊魂を意識すると、松阪市宝塚町の旧伊勢国最大の前方後円墳「宝塚一号墳」(5世紀、全長111メートル)から出てきた船形埴輪(はにわ)の意味も分かる。

壺形や円筒形の埴輪が巡る墳丘と造り出しの裾から出てきた船形埴輪について、辰巳和弘・元同志社大学教授は「古代をみる眼」(新泉社、平成27年)で、「古墳はこの世につくり出された来世、『他界』です」「船は他界へと死者の魂をいざなう乗物なのです」「船形埴輪が置かれた場が境界」と説明していて、納得できる。