まる見えリポート・みえ平成政治史  民主系、自民が攻防 「北川選挙」で勢力図一変

【初当選を果たし万歳をする北川氏=津市港町の本部事務所で(平成7年4月9日)】

「平成」があと二日で幕を下ろす。平成最後の統一地方選が終わったことで、選挙を通じて三重の平成政治史を振り返る。歴史的な北川正恭氏の知事選を皮切りに、衆院の小選挙区制導入、政権交代、自民系の鈴木英敬知事誕生など激動の時代となった。節目、節目の選挙を経て、枠組みや勢力図が大きく変化した平成の30年間。一方で、先の統一地方選は無投票選挙が増加。後半戦に至っては選挙となった首長選は朝日町のみ。果たして統一選と呼んでいいのか分からないほどの低調ぶりだ。もはや、平成は遠くなりにけり―。

■波乱の幕開け

いまだ県政界関係者の口の端に上る伝説的な選挙が、北川正恭氏が初当選した平成七年4月の知事選。知事を六期務めた田川亮三氏の引退により、新進党衆院議員だった北川氏と、副知事の尾崎彪夫氏が激突した。

岡田克也氏ら、政治改革を訴え自民党を飛び出した新進党勢が援軍の北川氏と、自民や社会党、三教組、県職労などの支援を受けた尾崎氏。

中央政界での自社なれ合いの「55年体制」崩壊を背景に、北川氏が県内で「変革」を訴え、自民や労組が味方の尾崎氏が既得権益を守る守旧派という対決構図に。北川氏らが北勢を地盤とし、自民が南部に強い支持層を得ていたことで「南北対決」ともいわれ、県を二分する天下分け目の一戦となった。

結果は約1万2千票差という大接戦を北川氏が制す。「選挙に強い」とされた北川氏の神がかり的な選挙戦術や、当時社会党県本部委員長だった伊藤忠治氏が反旗を翻し北川氏につき、同顧問の山本正和氏が「敵前逃亡」と激しく非難したことも大きな話題となった。

北川知事の誕生がもたらした変化は県庁だけにとどまらない。同時期の県議選では自民が単独過半数割れに追い込まれた。この「北川選挙」が潮目となり、非自民・非共産勢力が県内で伸長し、県政界の勢力図を塗り替えていくことになる。

尾崎陣営にいた関係者は振り返る。「当時三重は自民王国だった。この一戦で歴史が変わったのは間違いない」。平成の時代替わりの瞬間となった。

■攻防

政治改革の一環として衆院選で小選挙区比例代表並立制が導入され、平成八年10月に初実施される。同制度の導入は、政権交代可能な二大政党制への足がかりともされた。

自民と新進が激突し、県内では二、三区の北部が新進(のちに民主)、四、五区の南部が自民の色分けに。以降、この構図は現在もほぼ変わらず。その中で、焦点は津・伊賀の1区(当時)。1区を制することが出来るかが、県内の大勢を占うことになった。

この1区でし烈な争いを展開したのが、自民の川崎二郎氏と新進(当時)の中井洽氏。互いに政治家の家に生まれ、伊賀が地盤。党派を超えた因縁対決が毎度行われ、中井氏が平成24年に引退するまでの小選挙区での戦績は、川崎氏三勝。中井氏二勝。まさに両雄並び立つ中での雌雄決戦が1区だった。

県内の勢力図が決定的となったのが、平成12年の参院選補選での高橋千秋氏の勝利。連合三重が擁立した高橋氏は二年前の参院選で自民の重鎮、斎藤十朗氏に敗れていたが、補選で自民新人を撃破した。

高橋氏を支援した枠組みが民主党、連合三重、新政みえによる「三重県方式」と言われるようになり、高橋氏はその象徴となる。「三重県方式」による体制は知事選、参院選の全県1区選で約十年間、全勝を続けていく。全国的に小泉旋風が吹き荒れた際も「高橋選挙」は揺るがず、名実ともに「民主王国」が確立された。

■歴史は回る

平成21年8月の衆院選で自民が大敗し、同9月、民主党政権が誕生する。三重では一足先に全県を制する政権交代が行われていたが、衆院選でも比例代表を含め六人が当選し、民主王国の面目躍如となった。民主党関係者は「有権者の強い期待を感じた」と当時を振り返る。県内では岡田氏や中井氏、中川正春氏が入閣するなど絶頂期を迎えた。

ところが、三年で民主党政権はあっけなく崩壊する。

瓦解の兆しは、すでに一年前に県内であった。平成23年4月の知事選、自民推薦で出馬した鈴木英敬氏がわずか1万票差で民主系候補を破り、劇的な勝利を収める。

鈴木氏は21年の政権交代選挙の際、経産省を辞して衆院三重2区から自民公認で出馬し、手痛い敗北を期していた。自民にとっては、歯が立たなかった「三重県方式」。自民関係者は「何をやっても勝てなかった民主に勝利できたこの一勝は大きかった」と感慨深げに話す。

民主党政権に対する失望もあり、平成25年の参院選で高橋氏は自民新人に敗れ、落選する。皮肉なことに、「三重県方式」の象徴が、またその崩壊の象徴となった。

激動の平成が終わる。令和の新時代は果たしてどのような県政界の姿を見せるのか―。