<1年を振り返って>松浦武四郎生誕200年 探検家の全体像に光

【2月24日、アイヌの「ムックリ」の演奏で開幕した松浦武四郎生誕200年記念事業=松阪市川井町の農業屋コミュニティ文化センターで】

今年は北海道の名付け親として知られる三重県松阪市小野江町出身の探検家、松浦武四郎(1818―1888年)の生誕200年に当たり、記念事業が続いた。いち早くアイヌ民族との共存を提起した業績に光が当たるとともに、いずれも生涯にわたって情熱を傾けた、考古学の先駆けとなる古物収集や全国の山岳踏破も注目され、武四郎の全体像が分かった。

生誕200年記念事業のオープニングイベントが2月24日、同市川井町の農業屋コミュニティ文化センターであり、北海道の静内(しずない)民族文化保存会のアイヌ古式舞踊とムックリ(口琴)の演奏で幕が開けた。

来賓あいさつで北海道アイヌ協会の加藤忠理事長は10年前に国会で可決された「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」に触れ、「武四郎は幕府への復命書で明日の開拓は結構だが、今日のアイヌの命を救ってください、滅びてしまうと訴えている。そのことを国会議員に伝え、決議の可決に大きく役立った。発禁になった武四郎の『近世蝦夷(えぞ)人物誌』が残され、アイヌが先住民族である論拠となる貴重な記録になっている。本当に胸を打つ」と語り、「アイヌ民族として心からありがたく感謝申し上げたい。武四郎の願いがようやく実り始めたと感じている。一人のひたむきな誠実さと良心で向き合う心が、人の心を動かし、普遍性につながる」とたたえた。

10月13日に同所のクラギ文化ホールで開いた記念事業のメーンイベント「松浦武四郎フォーラム」でも、講演した作家の高橋源一郎明治学院大学教授は、幕府の箱館奉行が出版を許可せず武四郎の生前は未公刊だった「近世蝦夷人物誌」を取り上げた。

同書ではアイヌの指導者や庶民に焦点を当てながらアイヌの風俗や価値観を紹介するとともに、松前藩の役人や商人がアイヌの尊厳を軽んじて虐待している実情を暴露した。

高橋氏は「武四郎はアイヌの方がモラルが真っ当じゃないかと気付いた時、だんだん日本中心主義の世界観が変わってくる」「アイヌが残酷な扱いを受け、解決できない矛盾を感じたと思う。明治政府の役人になったが、同化政策に手を染めざるを得ない。だから辞めたんだと思う」と指摘。武四郎を「早過ぎた人」として、「今は他者に非寛容な時代。異文化を包摂できず排除しようとする動きは世界中で起こっている。武四郎の意義はとても大きい」と評価した。

ただ、武四郎の蝦夷地探査は28歳から41歳までで、人生の一部。明治政府の開拓判官を53歳で辞職し、71歳で亡くなるまで従来通り旅と登山、古物集めにいそしんだ。

記念事業で同市は武四郎が65歳の肖像写真で掛けている大首飾りの複製を298万円かけて製作した。縄文、弥生、古墳時代の翡翠(ひすい)や水晶で作った勾玉(まがたま)や管玉243点を絹糸でつなぎ、長さ約1・5メートル、重さ約3キロある。神道の祭事や修験道で使うという。古物収集家を象徴する遺品と言える。

また、「大杉地域おこしの会」は今年、多気郡大台町大杉の大杉谷登山センター横に武四郎の大台ヶ原探検を顕彰する看板を設置し、登山家としての姿を紹介している。武四郎は当時未開地だった大台ヶ原へ68歳から70歳まで毎年踏み入り、登山記を書いている。最後の登山は70歳の富士山だった。

三重県総合博物館や北海道博物館が主催し、両道県で今年開催された巡回展「幕末維新を生きた旅の巨人 松浦武四郎―見る、集める、伝える―」の図録で、北海道博物館の鈴木琢也氏は「晩年の武四郎は、若き日の旅で学んだ北海道の歴史や文化、蒐(しゅう)集・記録した北海道関係の考古遺物を比較対象にして、古来の日本の歴史や文化というものをあらためて探求しようとしたのではないだろうか」と推測している。

武四郎のアイヌへの親しみや古物収集、山岳信仰と関わる登山への熱中は、いにしえの日本を考証する国学を背景にした時、つながっているのかもしれない。