―使ってもらえる作品を― 陶芸家・「楽山窯」四代目当主 清水久嗣さん

【「100年後、200年後にも使ってもらえるような作品をひとつでも多く作りたい」と話す清水さん=菰野町杉谷で】

菰野町杉谷の創房村内「楽山窯」は、京都で京焼を、四日市で万古焼を修行した曽祖父の初代楽山(本名久太郎)さんが、明治41年に四日市市本郷町で開窯した「大正窯」が前身。同時に菰野町切畑に登り窯を築窯。初代は茶道遠州流家元と親交があり、茶陶を中心に作陶を続け全国の茶道愛好家らに重宝されてきた。

戦死してしまった二代目の日呂志さんを継ぎ、父の故和久(雅号・日呂志)さんが三代目になった。高麗物に魅了されていた初代と同様に、父も素朴で飾り気のない井戸茶碗に代表される高麗物に心奪われ、粘度が少ない陶土を産する韓国釜山近郊の金海にも築窯して双方の窯元を行き来しながら作陶した。令和2年、亡くなった父を継いで四代目当主となった。

四日市で3人兄弟の次男として生まれた。幼少期から活発で、小学時代は卓球、サッカー、野球などを、中学ではバスケット部で練習に励んでいたが、陸上部顧問の勧めで移籍し、中3からハードル走を始めた。その秋の三泗地区大会で大会記録を更新し、県大会に進んだ。

高校でも陸上部に入り、1年生で県大会1位となり、国体出場を果たした。「タイム短縮を自分のことのように喜ぶコーチの姿に、練習の苦しさが吹き飛んだ」と振り返る。2年生からはけがに悩まされ、良い成績は残せなかったがハードル走に打ち込んだ4年間は貴重な青春の1ページとなった。

高校卒業を前に、「陶芸の修行をしたい」と父に頼んだ。父は「人生は長い。1度海外から日本を見てみろ」と言われ、いきなりで驚いたが外国生活をするチャンスだと卒業後の留学を決意した。米国・カリフォルニア州ストックトンに住む父の知人宅にホームステイをして、デルタ・カレッジに通い始めた。

数カ月後、アパートを借りて独り暮らしをしながらアルバイトも経験した。運転免許を取得して中古車を買い、カレッジの友人らとドライブを楽しんだ。辞書を片手に悪戦苦闘したこともあったが、多様な文化や習慣、考え方、価値観などを同じ人間として受け入れられるようになった。「2年間の貴重な体験の場を与えてくれた父の大きな愛を実感した」と語る。

20歳で帰国し、父の工房での修行が始まった。土のこね方からろくろの回し方、成形、削り、乾燥、焼成までの工程を兄弟子たちの指導で学んだ。父とともに韓国釜山の窯元にも行くようになり、1年の半分ほどを韓国で過ごすようになった。

父は日本に、自身は韓国にと行き違いに滞在することが多くなり、1人でろくろの扱い方を繰り返し練習し、気づくと朝になっていたこともある。「今思えば、自分で会得しなければ技術は身につかないことを父は伝えたかったのでは」と思う。

少しずつ仕事を任されるようになり、仕上げた陶器が商品として認められるようになった。24歳の時、名古屋と四日市で「親子展」を開いた。父の作品の愛好者らが訪れ、息子の作家デビューを祝って購入してくれた。その4年後、28歳で初個展を開催した。

高麗物を代表する井戸茶碗は、ろくろ目と高台付近のかいらぎに特徴があり左右対称、また蕎麦茶碗は地肌や色合いがそば粉に似ている。伝統的な焼物の約束事を守りつつ、自分の作風にすべく研さんを重ねてきた。「久嗣さんの作品だとすぐに分かった」「立派な後継者になったなあ」など、親子2代のファンになってくれる人が増え、何よりの励みになっている。

妻と2男2女、愛猫トラと暮らす。長男は社会人になったが、子どもたちはそろって陸上の選手。「休日は、大会に出る子どもたちの応援に行くのが楽しみ。仕事を手伝いながら、家庭を守ってくれる妻にはいつも感謝を伝えるよう心がけている」という。広い敷地内には母と弟家族の住まいもあり、工房・登り窯、作品展示室と茶室、第2展示室もある。

「伝統を追求しながらやってきたが、今後は茶道具にこだわらず、固定観念にとらわれることなく新しい物、前衛的な物にも挑戦していきたい」と話し、「今から100年後、200年後にも親しまれ、使ってもらえるような作品をひとつでも多く作りたい」と意欲を語った。

略歴: 昭和46年生まれ。平成2年県立菰野高校卒業。同年―同4年米国留学。同4年から楽山窯で修行。同9年金鱗会会員。令和2年楽山窯4代目当主。同3年遠州流家元職方向栄会幹事就任。
【「100年後、200年後にも使ってもらえるような作品をひとつでも多く作りたい」と話す清水さん=菰野町杉谷で】

略歴: