<古事記と三重>飛翔するヤマトタケル

【宮内庁が指定した能褒野墓】

三重の地を発ったヤマトタケルは能煩野(のぼの)(日本書紀は能褒野)に到り、そこが終焉の地になったと古事記も日本書紀も伝えている。ところが、その臨終の描き方はまったく違うのである。

日本書紀では、能褒野の地で動くこともできなくなったタケルは、父天皇へ使者を遣わし、みずからが天皇に戦果を報告できない無念さと天皇への思いを伝え、その死を知った天皇は深く嘆きながら能褒野陵の造営を命じて死を悼む。ところが古事記では、天皇はいっさい登場せず、父子の関係は修復されないままにタケルは最期を迎える。そして、その悲劇的な最期を盛り上げるために、古事記では何首もの歌謡を編み込んで物語を盛り上げようとする。

能煩野に辿(たど)りついたタケルは、「国思(しの)ひ歌」と呼ばれる三首の歌をうたって倭(やまと)への思いを吐露する。その第一首。

 倭は 国のまほろば
 たたなづく 青垣
 山籠(やまごも)れる 倭し麗(うるは)し

倭を賛美する歌で、今もJR東海や近鉄の観光案内ポスターで目にすることがある。歌は、出来事を伝える散文とは違って感情を盛り上げる効果が大きく、悲劇的な場面を歌で盛り上げるのは常套的な手法である。ヤマトタケルの場合も、巧みに配置された歌が最期を感動的に飾っている。望郷歌三首に続く辞世の歌では、熱田のミヤズヒメの許に置いてきた太刀への思いがほとばしる。

 をとめの 床(とこ)の辺(べ)に
 わが置きし 剣(つるぎ)の太刀
 その太刀はや

技巧など何もなく、末尾の「はや」は詠嘆のことば。そのことばとともにタケルはこと切れる。

タケルの死はすぐに倭に知らされ、倭から下ってきた妻や子が墓を造り嘆き悲しむさまが、これもまた歌を並べて描かれる。ところが、父である天皇はまったく姿を見せない。それが古事記の態度である。はじめに生じた父と子との溝は、タケルの死ののちも修復されることはない――そのように語ることによって、古事記のヤマトタケルは悲劇の英雄になったのである。その語られ方は、源義経とも重なる。

宮内庁が定めた能褒野墓は亀山市田村町にある能褒野王塚古墳で、近くにはヤマトタケルを祀る能褒野神社が建つ。また鈴鹿市上田町の白鳥塚をヤマトタケルの墓とする伝えもあり、近くの加佐登神社もヤマトタケルを祀(まつ)っている。ただ、タケルの魂は伊勢の地には鎮まらず、白鳥になって飛び翔って西に向かい、倭を越え河内に降りるも、ついには天へと翔っていったと語られている。