<古事記と三重>ヤマトタケルの放浪

杖衝坂、坂の奥左側に芭蕉句碑

父であるオホタラシヒコ(景行天皇)に命じられて遠征に出たヤマトタケル(倭建命)は、伊勢斎宮であったヤマトヒメ(倭比売尊)から草薙剣と袋を授かり、尾張から焼津・走水(はしりみず)を通って、東国の悪い神や服属しない者たちを平らげて尾張の熱田にもどる。そして、行く時に出会ったミヤズヒメ(美夜受比売)と結ばれるが、伊吹山の神を倒すと言って、だいじな草薙剣を置いたまま出かけたヤマトタケルは、山の神の化身の白い猪を神の使いと間違えたために病気にされてしまう。

苦しみながら伊吹山を降りたタケルは、玉倉部の清泉(しみず)(滋賀県米原市の醒井)で一息つくことかができた。しかしそのあとに語られるのは、死への道行きともいえる最期の旅のさまである。そのなかで取り上げられた地名を順番に並べてみる。

当藝野(たぎの)

杖衝(つえつき)坂

尾津(おつ)の前(さき)

三重の村

能煩野(のぼの)

臨終の地となる能煩野を除くと、いずれも短いエピソードで地名をつなぎながら、タケルの死に向かう旅を語っていく。最初の当藝野は岐阜県多藝郡(のちに合併して養老郡)の野とされ、歩くのもままならない様子を「たぎたぎしくなりぬ」と嘆いたのでタギと名付けたとある。足が痛み、歩みがヨボヨボしているさまを言うのであろう。

杖衝坂は、四日市市采女町から鈴鹿市石薬師にいたる東海道の旧道にある急坂とされている。坂の途中には、「歩行(かち)ならば杖つき坂を落馬かな」という松尾芭蕉の句碑が立つ。たしかに足を痛めたタケルが登るには難渋しただろうと思わされる場所である。そのために普通は二つにしか折れない足が三つに折れ曲がってしまったので、そこを三重と呼ぶようになったという。場所は特定できないが、三重郡内のいずれか。三重郡は、四日市市に現在の三重郡(菰野町・朝日町・川越町)を加えた地域をさす。三重県の名はこの逸話にちなんで名付けられた。

その前に出てくる尾津は、現在の桑名市多度町辺りと考えられている。今は揖斐川下流域だが、古代では伊勢湾はずっと奥まで入り込んでいたと考えられ、尾津という地名からみて東海道の伊勢国から尾張国への渡し場であったらしい。そこで往路に食事をした時に、松の木に立てかけたまま忘れてしまったタケルの太刀がそのまま遺されていた。それを喜んだタケルが歌った「一つ松」の歌が古事記に(日本書紀にも)載せられている。