<古事記と三重>伊勢神宮の創祀 千葉大学名誉教授 三浦佑之

【内宮の五十鈴川御手洗場】

 奈良県との境の津市美杉町に生まれ育ったというご縁により、今回から何度かにわたって、古事記に出てくる三重にゆかりの神話や伝承を紹介させていただくことになった。となると、第1回は敬意を表して伊勢神宮と天照大御神(日本書紀では天照大神。以下、アマテラスと略す)について取り上げざるをえまい。

 ところが、アマテラスがいつから伊勢の地に祀まつられることになったのか、古事記でははっきり伝えてはいない。それに対して、もう一方の歴史書『日本書紀』には、創祀の次第が具体的に記されている。

 アマテラスから、「吾を見る」ごとくに同じ殿に置くようにと言われたニニギ(瓊瓊杵尊:ににぎのみこと、古事記は迩々藝能命)が、宝鏡を持って地上に降りて以降、アマテラス(宝鏡)はずっと天皇の許にあった。ところが第十代崇神天皇の時、不穏な状態が生じ、鏡を宮殿の近くの笠縫かさぬいの地に移した。それでも鎮まらず、垂仁天皇二十五年には鏡を託されたヤマトヒメ(倭姫命、古事記は倭比売命)が、近江・美濃の国を経て伊勢国に至ると、アマテラスが「ここに居たい」と告げたので、祠ほこらを立て斎宮を五十鈴川のほとりに立てて祀った。

 この、よく知られたアマテラスの放浪伝承は、日本書紀にだけあって古事記には存在しない。では古事記ではどのように考えられていたかというと、天孫降臨の場面に次のようにある。

 アマテラスは、地上に降りるニニギにたくさんのお伴を与えるとともに三種の神器を賜い、
「この鏡は、私の御魂みたまとして、我が前を拝むように祭りなさい」と言い、オモヒカネ(思金神)に祭祀さいしを行なうように命じた。そこで二神(鏡とオモヒカネ)は伊須受能いすずの宮(五十鈴宮)において拝み祭っている。

 古事記の神話によれば、日向の高千穂に向かったニニギ一行とは別に、鏡は高天の原から真っすぐに伊勢の地に降りてきたらしい。しかも、日本書紀の放浪記事のあとにも、五十鈴川のほとりは「天照大神の始めて天あめより降ります処」とあって、直接に伊勢に降りたという伝えが古くに存したことが窺うかがえるのである。

 歴史的にみれば、伊勢神宮の創祀は、7世紀後半の天武天皇の時代とみるのがもっぱらの見解である。しかし、神話ではいくつかの別の伝えが存在しており、少なくとも古事記の段階では垂仁天皇代における神鏡の移動などまったく存在していなかったことになる。

〈略歴〉みうら・すけゆき 1946(昭和21)年美杉村(現・津市美杉町)生まれ、県立津高校出身。『古事記』研究の第一人者。著書に、『口語訳古事記』(第1回角川財団学芸賞受賞)『古事記を読みなおす』(第1回古代歴史文化みやざき賞受賞)『古代研究』『風土記の世界』『出雲神話論』など。直木賞作家三浦しをんさんの父。