<まる見えリポート>宝塚古墳から見た日の出 春秋分に神島、冬至に伊勢神宮

【宝塚古墳から望む秋分の神島と朝日=9月22日午前、松阪市宝塚町で】

太陽が真東から昇り真西に沈む春秋分、三重県松阪市宝塚町の宝塚古墳から望むと、鳥羽市の離島・神島から朝日が昇り、夕日が堀坂山(松阪市)に沈む。神島と堀坂山が東西一直線に並び、その間に古墳を造っているため。冬至の日の出は東西線の約30度南で、そこは伊勢神宮内宮に当たる。岐阜県関市の元高校教員、尾関章氏(71)が位置関係を突き止め、昨年10月に論文を発表した。伊勢神宮が現在の場所に立地した「傍証になる」と語る。太陽が演出する風景はパソコンソフトで容易に検証でき、考古学研究は一変している。

(松阪紀勢総局長・奥山隆也)

 記者は秋分の日、同古墳の墳頂で日の出を待ったところ、雲で見えなかった。だが、前日の9月22日は神島の真上で朝日が雲から姿を見せ、撮影できた。

尾関氏は同古墳と二至二分(冬至夏至、春秋分)線、他の古墳との位置関係を調べた。同古墳と神島を結ぶ東西線上には金色に輝く「頭椎大刀(かぶつちのたち)」が出た明和町坂本の坂本古墳がある。同大刀は東海地方でも発見は少なく、県指定文化財。

東西線の約30度北の夏至の日の出方向には、こちらも金ぴかのヘルメット「小札鋲留眉庇付冑(こざねびょうどめまびさしつきかぶと)」が見つかった同市佐久米町の佐久米大塚山古墳が立地。仁徳天皇陵からも出ている冑で、現在は巡り巡ってニューヨーク市のメトロポリタン美術館が保管している。

宝塚古墳と内宮を結ぶ冬至線上には、5世紀初めの同古墳(後円部径75メートル)に続く同市岡本町の高地蔵古墳(同48メートル)や、明和町上村の高塚古墳(同55メートル)の大型古墳が並ぶ。冬至は短くなった日照時間が翌日から再び長くなる1年の節目。年末年始は今も初詣や初日の出に手を合わす風習があり、重視される。

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GPS(衛星利用測位システム)とパソコンの景観シミュレーションソフトの登場で、古墳と背後の山並みを画面に高精度で再現できるようになり、飛躍的に調査しやすくなった。

尾関氏は昨年10月以来、雑誌「古代史の海」などで宝塚古墳と伊勢神宮の関係を考える論考を書いてきた。「神島からの彼岸の日の出が見えるこの丘が選ばれ、この古墳が造営された」と考え、冬至の日の出は「内宮の西の鼓ケ岳頂上近くの北側の稜線に昇る」「この古墳から見える冬至の日の出地点が意識され、鼓ケ岳の向こう側が探索される」と記す。

また、宝塚古墳を一躍有名にした船形埴輪(はにわ)そばの2個の柱状埴輪を結ぶと冬至線と重なる事実も発見。墳頂から見下ろす柱列の向きをたどった先に内宮がある。船形埴輪のへさきは東向きで、神島を向いている。

学界では東海大学の北條芳隆教授が今年5月、「古墳の方位と太陽」(同成社)を刊行した。奈良盆地の代表的な弥生遺跡「唐古・鍵遺跡」から見た東の山並の日の出が、夏至は東北の高橋山、春秋分は真東の龍王山、冬至は東南の三輪山から昇ると指摘。山裾の大古墳群について龍王山を頂点に箸墓、西山両古墳を南北端とする二等辺三角形の枠組みに収まる配置を見つけた。

龍王山の真西に大阪府の仁徳、応神両天皇陵が位置し、龍王山が「王権の立脚点と由来を表示する意味を持ちつづけていた」と跡付けた。

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唐古・鍵遺跡から望むと冬至の朝日が昇る三輪山のほぼ東に堀坂山や神島がある。昭和55年のNHK番組「謎の北緯34度32分をゆく 知られざる古代」は三輪山や隣の箸墓古墳を貫く東西線上になぜか点在する遺跡や寺社を神島から淡路島まで追い掛けて反響を呼んだ。

同番組ディレクターの水谷慶一氏は同名書籍に、唐古池から見た三輪山の山頂に輝く冬至の日の出写真を掲載している。同書で、伊勢神宮の祭神「天照大神」が主役の「天の岩戸神話」を巡り、「一説では太陽がいちばん衰える冬至の日に太陽の復活を祈って行われる祭りを説話にしたもの」と紹介している。

日本という国号や国旗「日の丸」は古来からの太陽との深い結び付きを示す。古墳から望む太陽がつくる景観や古墳間の方位が、文字が普及していなかった時代を解明する一助になるだろう。