─「失敗から学べ」座右の銘に─ 自動車整備「鈴鹿自動車工業」会長 金子堅二さん

【「100年続く企業を目指してもらいたい」と話す金子さん=鈴鹿市寺家町で】

三重県鈴鹿市寺家町の「鈴鹿自動車工業」は、昭和37年に父の故政輝さんが同市国分町で創業した「鈴鹿板金工業所」が前身。同48年、亡くなる前年の父から経営を引き継いだ。2年後、現在地に新社屋を建てて移転し、大型車板金のためUSAベアー社製の最新大型フレーム修正機を導入した。同55年、法人化に伴い「鈴鹿自動車工業株式会社」と社名を改めた。

大型車の板金、整備、特装、重機、塗装、小型車の整備など8部門に分かれて従業員33人が、お客様目線に立って作業をしている。事故車、故障車の丁寧な修理が評判を呼び、県内を中心に愛知、滋賀などにエリアを拡大している。

経年劣化で破損したトレーラーの車軸の修理依頼があった。古い部品でどこにも在庫がなく、修理は不可能かと諦めかけたが、ふと思いつきもう一方の車軸を見本に描いた図面を旋盤工場に持ち込んで、新たに制作してもらい修理することができた。「あちこちでさじを投げられ、廃車を覚悟していた車がよみがえった。夢のようだ」と、大喜びするユーザーの笑顔がうれしかった。

四日市市で3人きょうだいの次男として生まれ、1歳の時に鈴鹿市に移り住んだ。幼少時から人懐っこく、誰とでもすぐに仲良くなることができた。中3の時、英語教師から「人を見たら泥棒と思うな」と教えられた。たとえだまされたとしても、人を疑うより信じる方がいいことなのだと胸に刻んだ。

車1台1台に真剣に向き合う経営者としての父の姿を見て育ち、将来は父の仕事を継ごうと決め、四日市中央工業高校の機械科に進学した。勉学の傍らブラスバンド部に入部してシンバルやクラリネットを経験し、3年生の時には指揮者として県高校吹奏楽コンクールに出場した。共に頑張った仲間とは、今でも連絡を取り合って旧交を温め合っている。

卒業後は家業に入る前に他社で修行をしようと、京都府の「相互車輌」に入社した。だが、2カ月後に結核を発症し、5カ月間の入院生活を送った。退院後も通院が必要になり「相互車輌」を退社、療養生活の傍ら家業を少しずつ手伝い始め、3年かかって全快した。

「もう社会復帰できないのでは」という療養中の不安が消え、仕事ができる幸せをかみしめながら、先輩社員らの指導で、板金加工や塗装の技術などを覚えていった。父から経営を引き継いだ翌年の昭和49年、父が60歳で他界した。「何事もやってみなければ」と挑戦し続けてきた父の前向きな生き方を胸に刻んだ。社会人としての出発点でつまずいたことも、人生に無駄なことはないと考えられるようになり、「失敗から学べ」を座右の銘とした。

新たな地で事業をと、父が遺してくれた土地に新社屋を建てて移転した。最新機器導入などの借金もあり、マイナスからのスタートだったが、10年がかりでようやく軌道に乗せることができた。「同業者や友人らの支援と、信じてついてきてくれた社員のおかげと感謝している」と振り返る。

幼少時に父母が営んでいた食堂で食べたラーメンの味が忘れられず、本業の傍ら同市平田町に「KENちゃんらーめん」店を開店した。平成3年の開業から6年間の挑戦だったが、自らも厨房に立ち、お客様の「おいしかった」の声に、かつて両親が味わったであろう喜びを感じることができた。

元気な内にバトンタッチをと平成27年、66歳で会長に退き、長男隆一さん(48)に経営を託した。現在は週4日間、経理を担当している妻美枝子さん(74)と出勤している。

長女知世さん(50)は嫁いで岐阜県に住んでおり、妻と長男夫婦と孫、次男容士さん(45)と6人で生活している。「家庭は一番心安らげる場。趣味はゴルフと庭木の手入れ、花壇作り。家事、育児、仕事全てを支えてくれる妻との旅行を楽しんでいる」と話す。

平成29年、創業55周年記念の社史を発刊した。初代が掲げた社訓「まごころ」を貫いてきた半世紀余の歴史を余すことなく記し、1年がかりで完成させた。「3代目には、お客様の困りごとのフォローとよそではできない仕事を継続し、培ってきた信頼と実績で100年続く企業を目指してもらいたい」と語った。

略歴:昭和24年生まれ。同42年県立四日市中央工業高校卒業。同年「相互車輌」入社。同43年「鈴鹿板金工業所」入社。同49年「鈴鹿板金工業所」社長就任。同55年「鈴鹿自動車工業株式会社」に社名変更。令和元年四日市中央高校同窓会会長就任。

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