―板金職人から独立開業― 総合建設業「永都」社長 川辺琢馬さん

【「現状に満足することなく夢を持って新しいことに挑戦していきたい」と話す川辺さん=亀山市栄町で】

三重県亀山市栄町の総合建設業「永都」は、鈴鹿市竹野町で平成17年に創業した「川辺板金工業」が前身。同28年、法人化に伴って社名を変更し、亀山市に本社を移転した。県内を中心に、工場や倉庫の屋根・壁工事、一般住宅の外装・内装、リフォーム工事で実績を伸ばしている。

令和3年には新規事業として、Tシャツやパーカー、キャップなどにオリジナル刺しゅうやプリントを施す「エイト・ワークス」を設立。アパレル業界への進出を果たした。

「無理をせず、事故のない仕事」をモットーに、現場の朝礼では社員と協力会社の社員に安全面の注意を呼びかけて作業に当たっている。

数年前の年末から年始にかけて、御在所岳山頂のロープウエー駅舎の屋根と壁の貼り替え工事をした。吹雪の中、手の感覚がなくなり、まつげが凍りつく中での作業は思うように進まなかったが、皆で励まし合いながら何とか期限内に完成させた。仲間と共に過酷な仕事を無事やり終えた後の達成感がチームとしての絆をより強めた。

滋賀県立彦根総合運動場アリーナの屋根を手がけた際は、日本で唯一の扇形屋根とあって模型や図面を検討しながら打ち合わせを重ね、14社ほどの業者が連携して1年後に完成させた。工事担当者から「素晴らしい仕事をしていただいた」という感謝の言葉がうれしかった。

亀山市で2人兄弟の次男として生まれた。4歳から空手道場に通い始め、小6で黒帯を取得した。幼少時は人見知りだったが、空手を通して友だちが増えた。中学では陸上部で長距離走に打ち込み3年続けて県大会で優勝し、3年の全日本中学校駅伝では1区を任された。

スポーツ推薦で陸上の名門校上野工業高校(現・伊賀白鳳高校)に進学。1年生で駅伝メンバーに選ばれたが腰を痛め、痛み止めとリハビリを続けながら高校の3年間は補欠で終わった。「共に練習に明け暮れた仲間とは今でもよく集まる。皆ライバルではあったが、兄弟以上の存在だった」と振り返る。

卒業後は、陸上部の推薦で名古屋市の大同特殊鋼に入社した。直後に不景気のため同社陸上部が廃部になったが、勤務を続けながら1年間でクレーンやアーク・ガス溶接、危険物取扱者など10数種の資格を取得させてもらった。

休日は伊良湖や伊勢の浜に出かけ、サーフィンを楽しむようになった。大自然の中、波の斜面をサーフボードで滑走する爽快感に魅せられた。陸上しか知らなかった学生時代の反動もあり、自身を見つめ直す時間がほしくなり、父に相談すると「やりたいことをとことんやってみろ」と賛成してくれ、2年半勤めた会社を辞めた。

退社後はハワイ旅行に出かけ、ワイキキビーチで1週間毎日サーフィンを満喫し、帰国後も伊勢の海に通った。半年ほど経った頃、周囲の皆が働いている姿に、自分も何か仕事を探さなくてはと、兄の紹介で「建築板金会社」に入社した。

見て覚えるのが職人の世界。鉄板を専用のはさみでひずみなく切り、正確に曲げる基本の作業が難しく、「そんなこともできんのか」と、先輩らの厳しい言葉に何度もめげそうになった。悔しくて、仕事を終えて皆が帰った後も居残り、はさみの刃の合わせ方を体で覚えようと、薄紙を切る練習を繰り返した。

現場で5年間腕を磨き、どんな作業もこなす自信が持てるようになったことで独立を決意した。仕事が途切れた時は営業に回る傍ら、知人の会社で板金のアルバイトもこなした。そんな時、務めていた板金会社社長から大型店舗工事の下請けを打診された。その仕事の早さと丁寧さを高く評価されたことをきっかけに、受注が増え仕事を軌道に乗せることができた。

趣味は釣り。しっかり働いて、仕事仲間と行く週1回の海釣りが何よりのリフレッシュタイムだという。「アパレル業界参入の次の目標は、大好きな伊勢の海辺で釣り人たちが集うカフェを開くこと。現状に満足することなく夢を持って新しいことに挑戦していきたい」と目を輝かせた。

略歴: 昭和55年生まれ。平成10年県立上野工業高校卒業。同年大同特殊鋼入社。同13年「建築板金会社」入社。同17年「川辺板金工業」創業。同28年株式会社「永都」に社名変更。令和3年県中小企業交流会「MR」入会。

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