―マスク生産で業績維持― 婦人・子ども服製造「ネイション産業」グループ「レユシール」社長 村田萌(もゆる)さん

【「今後は海洋レジャー、健康機器の分野への進出を目指している」と話す村田さん=四日市市で】

三重県度会町牧戸で祖父保さん(84)が昭和47年に創業した婦人服縫製会社「ネイション産業」を母体に、グループ会社2社を設立。平成15年に「レユシール」、同25年に設立した「インピアンチュラー」は、母香さん(56)が社長に就任した。令和3年、会長に退いた祖父から父誠司さん(55)が「ネイション産業」を引き継ぎ、自身は「レユシール」の経営を任された。

創業当時は婦人服製造会社の下請けとして婦人用ブラウスを専門に縫製していたが、数年後には元請けとなり、父の代になってからは普段着からフォーマルまで婦人服全般と子ども服も手がけるようになった。事業拡大に伴って平成10年に同町棚橋に工場を移転し、名古屋のアパレルメーカーを通して国内外に市場を広げている。

一昨年、コロナ禍で洋服の受注が大幅に減少したが、全国的に需要が急増したマスクの生産ラインを増設したことで業績を維持し、従業員50人で不況を乗り切った。

名古屋市で3人きょうだいの長男として生まれ、度会町で育った。母の勧めで4歳からピアノを習い始め、小6まで続けた。「発表会で演奏して観客が拍手してくれるのがうれしくて、いつの間にかシャイな性格が直った」と振り返る。中・高時代はバスケットボールに打ち込み、高2の時、キャプテンとして県大会出場を果たした。

以前見た東京の高層ビル群の美しさに感動し、将来はビル設計の仕事に就こうと東京理科大工学部に進学した。建築学科で学ぶ傍ら、演劇サークルの活動や居酒屋のアルバイトにも励んだ。バイト先の店主夫妻に息子のようにかわいがられ、上京してきた両親とも親しくなり、今でも家族ぐるみの付き合いが続いている。カットモデルにスカウトされ、ヘア雑誌に掲載されたことも学生時代のいい思い出になっている。

卒業後は、都内の建設会社「ワールドコンストラクション」に入社。現場監督として工程管理、作業員の安全管理などの仕事に携わった。3年経った頃、両親から家業を継ぐ意思があるかと聞かれ悩んだ。建設の仕事にやりがいを感じていたが、将来、経営者として何がやれるか、自分の可能性に挑戦してみようと決断して退社し、「ネイション産業」に入社した。

入社後は、自動裁断機システム(アパレルCAD)を使いこなせるよう、さまざまな生地の特性に合わせロスを極力少なくするためのパーツの配置方法を覚えることから始めた。裁断から縫製、アイロンがけ、ボタン付け、糸切りまでの工程を3年間で習得した。

納品先へのあいさつのため父に同行した際、「立派な跡取りさんですね」と声をかけられてうれしそうな父の姿に、「家業に戻って良かった。父の期待に応えられるように頑張ろう」と誓った。

海外からの技能実習生らの新人教育と生活面での支援も担当している。寮で暮らす中国やバングラデシュ、インドネシアなどからの技能実習生29人と、歓送迎パーティーや花見、紅葉狩り、月に1回伊勢市や玉城町の大型ショッピングセンターへの買い物ツアーなどで親睦を深めている。お別れ旅行では、「ここで働けて幸せだった」「もっと日本にいたい」と言ってくれる。現地での選考会場に、以前実習した女性が「仕立屋を開業した」と報告しに来てくれた時は、抱き合って喜びを分かち合った。

同じ敷地の母屋に祖父母、離れに両親と自身の5人家族と愛猫2匹の暮らし。食後は祖父と父と3世代でお酒を酌み交わしながら、いろいろな話題で盛り上がる。休日は志摩や伊勢の海へスキューバダイビングに出かける。「幻想的な海中で撮影を楽しむひとときがパワーチャージになっている」と話す。

バブル最盛期には県内に400社ほどあった縫製会社が、崩壊後は急速に海外生産に移行し、現在は18社にまで減少した。「コンピューター制御の裁断機を持つ縫製工場は数少なく、高品質の製品をどこよりも早くお届けできるのが我が社のモットー。グループ3社で縫製と太陽光発電、マスク製造に加え、今後は海洋レジャーや健康機器の分野への進出を目指している」と意欲を語った。

略歴: 平成5年愛知県生まれ。同27年東京理科大工学部建築学科卒業。同年「ワールドコンストラクション」入社。令和2年「ネイション産業」入社。同年県衣料縫製工業組合青年部入会。同3年「レユシール」社長就任。

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