大観小観 2022年11月15日(火)

▼記者会見を議事録に残るようになったのは平成13年、北川正恭知事の時代である。記者クラブ問題が、全国的にも話題になっているころで、県政記者クラブへの打診というより一方的通告だった

▼一回目が同年1月16日。田中康夫長野県知事(当時)が「脱記者クラブ宣言」をしたのはその四カ月後で、記者クラブの「情報の独占を止める」として、ジャーナリストや外国メディアなどの参加を認め、記者室を廃止するなどし、県政常駐の報道機関と対立した。東京都の石原慎太郎知事(同)も、都庁記者クラブの部屋代など徴収を打ち出し、クラブ側が複数存在したクラブの統合に動いている

▼民主党政権で外相に就任した岡田克也氏も、記者クラブの開放を打ち出し、クラブ側ではその対応を巡り議論が長期化した。日本の対外貿易の障壁の一つとして欧米から指摘されたこともあり、報道機関側もそのあり方についての見解を改めるなど、開かれた記者クラブを目指す動きが促進した

▼そうしたうねりの中で、議事録作成という県の申し入れを否定しにくい状況にはあった。県の巨額カラ出張が発覚し、情報公開を積極的に進めてオンブズマンの情報公開ランキングで透明度を全国一にするなどの北川県政にとって、議事録作成は県民へ開かれた県政を印象づけるために不可欠のことだったに違いない

▼その北川知事が、特に県政の課題について歴代知事最高のノーコメントを連発したのは皮肉だが、時移り星変わり。今は知事が政務と公務の分断を図り、議事録の縮減に動く。政官の本来の姿を取り戻しつつある。