2022年1月2日(月)

▼いつごろからか、初詣は年が改まった直後ではなく、善男善女の行列が途絶える午前2時過ぎにした。ゆっくりと参れるし、心置きなくかがり火を見つめながら暖を取れるが、年ごとの人々の空気感の変化は分からない

▼昨年からは「密」を避けるという言い分も加わったが、手水舎の水盤にたたえられた水が柄杓とともに消え、代わって二本のホースから水がちょろちょろ流れているのが何とも味気ない。拝殿中央に進み、がらがらを鳴らそうとして手が空を切った。がらがら、すなわち鈴と、それを鳴らす太い麻縄も、昨年の元日には消えていた

▼鈴は、神楽舞を舞う巫女が手にする鈴が由来とされ、参拝者の気持ちを清め、神霊の発動を願うものとされている。常在しているわけではない神様に自分の訪れを告げる役割もあるということだ。鈴をならさずにおさい銭を上げて、果たして神は続くたくさんの願いを聞き届けてくれるだろうか。世俗にまみれた俗人としては、そんな罰当たりの思いにかられる

▼昨年末に書類送検された40代警察官のさい銭ドロを思い浮かべたのは、ほんのついでというもの。本紙の年末恒例規格『みえの事件簿』は警察官の「不祥事多発」をテーマにしたが、さい銭ドロには触れなかった。額が200円で「たばこ代欲しさ」

▼ありきたりの中に、たわいなさと深刻さが同居する。さい銭を管理する神職のトップ、宮司がさい銭2万5千円ほど盗んでいたのは二年ほど前だったか

▼高いモラルと、卑しい品性が溶解していく。そんな現象を、洋の東西を問わず、見かけることが多くなった。