<古事記と三重>熊野という世界

【綱が掛けられた花の窟】

熊野市有馬町の海岸に花窟(はなのいわや)神社がある。神社と言っても神殿はなく、熊野灘に突き出た岬の先端の岩塊を御神体として、イザナミ(伊弉冉尊)が祀られている。ただし、その伝えは日本書紀の一書にあるだけで、古事記では、イザナミ(伊耶那美命)は熊野からは遠く離れた「出雲国と伯伎(ははき)国との堺の比婆(ひば)の山」に葬ったと伝えられている。

日本書紀の編者が正統と考える正伝の伝えにはイザナミの葬所に関する伝えはなく、異伝の一つに(第五段一書第五)、イザナミは火の神を生んだ時にやけどを負って亡くなり、「紀伊国の熊野の有馬村」に葬ったとある。土地の人びとはイザナミの魂(みたま)を鎮めるために花を飾り、鼓や吹(ふえ)を奏で歌舞をし「幡旗(はた)」を立てて祭ると伝える。

今、2月と10月の2日に行われる「お綱掛け」がそれとされ、藁縄で作った旗(幡旗)に花などを飾り、熊野灘に面して聳え立つ高さ50メートルもの岩塊(花の窟)の上から境内にかけて長い綱が張り渡される。その巨大な岩塊は、死者の魂が海のかなたに向かうための中継地と考えられているのだろうか。熊野というのは、古代の人びとにとっては、神の世とこの世をつなぐ特別な場所だったのである。

熊野という地名は、奥まり隠れたところを意味していると考えられ、そのような場所は異界に接触することができると古代の人たちは考えた。それゆえに熊野は、イザナミの魂が異界に向かうだけではなく、異界からやってくる神が寄りつくところでもあった。

古事記や日本書紀でいうと、日向(ひむか)の地を発って東へと進み、苦難の末に倭(やまと)に入って初代天皇として即位したカムヤマトイハレビコ(神倭伊波礼毘古命、日本書紀は神日本磐余彦尊)が最初に上陸したのが熊野であった。いわゆる神武天皇の東征伝承だが、ここには熊野という土地の性格が如実に現れている。

その上陸地がどこかというとよくわからない。というのは、熊野という地名は、三重県南部から和歌山県南部にわたる広い範囲をさしているからである。ただし、律令の行政区分では熊野は伊勢国ではなく紀伊国に属していた。そのためもあってか、イハレビコの上陸地点は熊野川の河口に位置する和歌山県新宮市あたりとするのが有力である。しかし、律令以前からある熊野は国境や県境をまたいで存在したのだから、三重県南部にもイハレビコ東征に関する民間伝承はさまざまに伝えられ、花の窟も熊野市に存在するのである。