<まる見えリポート>明和町から見る壮大な景観 「翼広げた鳥」の山並み

【朝熊ケ岳と鷲嶺を左右の頂点とする山並みの真ん中に伊勢神宮内宮の神域を含む山があり、翼を広げた鳥に見える景観=明和町山大淀の佐々夫江行宮跡近くで】

日本遺産「祈る皇女斎王のみやこ斎宮」12カ所の一つ、多気郡明和町山大淀の佐々夫江行宮(ささふえあんぐう)跡から南を見ると、朝熊ケ岳(555メートル)と鷲嶺(548メートル)を頂点とする左右の山並みの真ん中に伊勢神宮内宮の神域を含む山(369メートル)があり、翼を広げた鳥に見える。朝熊ケ岳と鷲嶺の山頂間だけで十キロ近くある壮大な景観。伊勢神宮の起源を説く「倭姫命世記(やまとひめのみことせいき)」によると、ここで天照大神(あまてらすおおみかみ)は「この国にいたい」と言って鎮座地が決まった。
神宮宮域林のうち西側の山域「神路山」は五十鈴川上流に広がり、宇治橋近くの鼓ケ岳(355メートル)から前山(528メートル)、鷲嶺へ続く。東側の「島路山」は志摩に通じる伊勢道路方面で、五十鈴川支流の島路川流域を占め、朝熊ケ岳山頂と接する。宇治橋付近で東西の山並みが五十鈴川に落ち込む地形となり、その南に神域の山がそびえる。

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日本書紀によると、宮中で祭っていた皇祖神の天照大神は宮廷から離れ、託された皇女倭姫命が大和、伊賀、近江、美濃を経て、伊勢に至って鎮座した。倭姫命世記は順路を詳述している。同書を収録している「日本思想大系」(岩波書店)は、本の成立は鎌倉時代だが「神宮の古伝承が包摂されたと思われる」と解説している。

同書によると、「佐佐牟江」に仮の宮を造った際、お伴の大若子命が「白鳥の真野の国」と褒め称え、倭姫命は喜び、今もある「佐佐牟江社」と「大与度社」を定めたと記す。

続けて、「天照太神、倭姫命に誨(おし)へて曰(の)たまはく、『是の神風の伊勢国は、即ち常世(とこよ)の浪の重浪帰(しきなみよ)する国也。傍国(かたくに)の可伶(うま)し国也。是の国に居らむと欲(おも)ふ』と。故(か)れ太神の教の随(まま)に、其の祠を伊勢国に立てたまふ。因りて斎宮(いわいのみや)を五十鈴川上に興し立つ。是を礒宮(いそのみや)と謂(い)ふ。天照太神始めて天自(よ)り降ります処也」という日本書紀と同じ文章が出てくる。

「常世の国」は古語辞典によると「海のかなたにあり、祖霊が集まる永遠不変の理想郷」。

また日本書紀は、大海人皇子(天武天皇)が皇位継承を巡る「壬申の乱」で、吉野から美濃へ向かう途中、「朝明郡(あさけのこおり)の迹太(とお)川の辺(へ)にして、天照大神を望拝(たよせにおが)みたまふ」と書いている。迹太川は四日市市を流れる海蔵川か朝明川とされる。同市からは伊勢市の飛ぶ鳥の山並みが伊勢湾に浮かんで見える。

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山の形については、古代史研究者の井上香都羅氏が弥生時代の銅鐸(どうたく)出土地は神山を拝する祭祀の場という仮説を立て全国調査し、共通しておむすび形の山の左右に山並みが控え、全体として左右対称に見える形を発見した。鳥のように見える。平成9年の著書「銅鐸『祖霊祭器説』」で、「山に宿った祖霊を、年に一度か二度、麓の山を正面に拝する場所に招いて、祖霊の祀りを行った」と考察している。

鳥については今年1月に亡くなった哲学者の梅原猛氏が、日本文化の根源を探求した大著「日本冒険」で、「古代日本においても、鳥は沖縄やアイヌと同様、人の霊のシンボルなのです。ヤマトタケルが死後、白鳥になって天へ飛んでいくところは有名です」と指摘している。

ヤマトタケルに関して日本書紀は「伊勢國の能褒野陵(のぼののみささぎ)に葬りまつる。時に日本武尊、白鳥と化(な)りたまひて、陵より出で、倭國を指して飛びたまふ」と記す。同書が入っている「日本古典文学大系」(岩波書店)は「死者の霊魂が鳥になるという観念は、世界的に拡がっており」と説明している。

梅原氏は「古くから『魂の不死』という思想が人類に存在したのではないか」「日本人が、途方もなく古い人類の信仰を最近まで忠実に保存した」と書き残している。