-「喜びのときを創造」 きめ細やかなおもてなしを- 「プラトンホテル四日市」社長  佐野貴信さん

【「四日市・三重を全国に発信するホテルを目指したい」と話す佐野さん=四日市市西新地で】

四日市市西新地の「プラトンホテル四日市」は、約40年前に誕生した「都ホテル四日市」が前身。経営者の交代に伴って名称を変え「四日市プラザホテル」「ザ・プラトンホテル」を経て、外資系企業の経営となっていた「ロワジールホテル四日市」を平成23年に譲り受けて社長に就任、翌24年に現在名とした。

「喜びのときを創造」―お客さまの立場になったきめ細やかなおもてなしをモットーとしている。昨年からのコロナ禍で想定外の厳しい状況にあるが、ホテルとグループ15店舗の従業員約140人がそれぞれの担当場所で心を込めて接客をしている。

四日市市で3人きょうだいの長男として生まれた。幼少時は、仲間と山に秘密基地を作ったり、発泡スチロールで作ったいかだで三滝川を下ったりして遊ぶ活発な子どもだった。小3から高校卒業まで10年間、野球に打ち込んだ。高校時代は監督の補佐としてコーチを務め、仲間と甲子園を目指した。「野球を通して、チームが団結して動くことや規律を守ることの重要さを学べたことで忍耐力が養われ、実社会で生かされている」と振り返る。

卒業後は地元の建設会社に入社したが、天職ではないと感じて半年で退社した。これと言ってやりたいことが定まらないまま、レストランで2年間厨房(ちゅうぼう)とホールのアルバイトを経験した。

20歳を機に、自身を見つめ直そうとアメリカ1人旅を決行した。ロサンゼルスやサンフランシスコなど西海岸の都市を4カ月かけて旅した。「異国の文化に触れて初めて日本の良さを実感した。頼る人のいない街々を旅したことで、自身の可能性に気付くことができた」と話す。

帰国後は、いとこが働いていた「四日市プラザホテル」でアルバイトを始め、半年後には正社員として宴会のサービス係を務めるようになった。25歳から営業企画課でディナーショーやウエディングの企画に5年間携わった後、社長の了解を得て30歳で独立、同ホテル専属の広告代理店「サノプランニング」を起業した。

ところが2年後、同ホテルのオーナー交代によって仕事が激減し、何とか活路を見いだそうと飲食業界に進出した。日本料理店5店舗をはじめ居酒屋、焼鳥屋、カフェなど8年間で10店舗を展開するまでになった。

その頃、不動産業の友人と食事中に、以前働いていたホテルが売りに出ていると聞き、お酒の勢いもあって思わず「買えるものならほしいなぁ」とつぶやいた。それがホテル担当者に伝わり「佐野さんになら売りたい。地元企業の手で発展させてもらいたい」と話が進み、平成23年に銀行の融資を受けて譲り受け、オーナーになった。翌24年に「プラトンホテル四日市」と名称を改めた。

部屋数144室と大小5つの宴会場、レストラン3店舗を備えたホテル。ビジネスや観光で訪れた宿泊客の1日の始まりを応援する「みえの朝ごはん」は大好評を得ている。県のブランド米、もち麦のパン、菰野豚、伊勢のあおさのりや干物など特産品をシェフが腕によりを掛けて調理し、ビュッフェスタイルで提供している。現在は休止しているが、コロナ終息後は再開する予定。

長男と次男は県外で大学生活をしており、現在は妻美帆さん(45)と中2の長女の3人暮らし。コロナ前は週1回位しか自宅で夕食を取ることができなかったが、仕事上の会食などがなくなったことで早く帰宅して家族と過ごす時間が増えた。「目標を持って進んでいる息子たちが誇らしい。今は妻と娘の3人で、ゆっくりと会話しながら食事を囲む時間が最高に幸せ」と語る。

長年、師と仰いできた市観光協会会長の野村愛一郎氏が今年5月に急逝した。「同会の副会長として市の発展に尽力された会長の遺志をしっかりと引き継ぎ、地域貢献に力を注いでいきたい」と話す。「宿場町でもある四日市で宿と食を提供するホテルとして地域に根ざし、ゆくゆくは四日市・三重を全国に発信するホテルにするのがコロナ終息後の目標です」と目を輝かせた。(岸)
略歴
昭和41年生まれ。同59年県立四日市工業高校建築科卒業。同年建設会社入社。同62年「四日市プラザホテル」入社。平成8年「サノプランニング」創業。同23年「プラトンホテル四日市」社長就任。同27年四日市法人会役員。同年四日市1番街商店街振興組合副会長。同29年県中小企業家同友会副代表理事。令和元年四日市観光協会副会長。

略歴: