’97  「神々と神 ― 特殊と普遍」

 皆さま明けましておめでとうございます。初春の喜びを申し上げます。

私も就任二年目を迎えるわけですが、新聞社の社長というと、何でも好きなことが言えていいなとうらやましがられます。が、これでなかなか「公正中立」「客観報道」などの“制約”があり、「ああ言ってはいかん、こう言ってはいかん」「ここへ行っては困る、そこへ行っては駄目だ」等々、社の内外から有形無形の助言(?)のごときものをいただき、鬱屈(うっくつ)していることも多い日常です。
元日に当たって、私個人が考えていることの一端をご笑覧くだされば光栄です。

 昨秋、作家の遠藤周作氏が亡くなられました。絶版になっている本を探して、津市内で、大きな間口で盛業中の古書店万葉を訪れてみました。書棚の遠藤氏のコーナーを見ましたら、十数冊ある本のほとんどがユーモア小説やユーモアエッセイなので驚きました。新刊書店にいってみても同じような品ぞろえでした。
確かに、彼の手になるものに相違ありません。が、彼の作家としての本質はそんなところにはありません。

 十八歳のころ、南山大学に通っていた姉の部屋から拝借して「沈黙」という小説を読んだことを思い出します。恐ろしいものを読んでしまったという思いでした。しかしもう後戻りできません。読書することの悲しみのようなものを思い知らされた気がしました。「沈黙」は、切支丹(キリシタン)の殉教をめぐって神の実在を問うた画期的な歴史文学です。宗教はもちろん、芸術や学芸においても、ついに語りえない、沈黙せざるをえない深淵(しんえん)が横たわっているのです。「神は本当にいるのか」という切実なる問いかけがこの作品の骨格を形成しています。氏の書かねばならぬ作品であり、氏によってのみ書かれるべきものであり、真っ向から立ち向かい成功した、スケールの大きな小説です。

 残酷な拷問の果てに死んでいく農民たち。神がもし実在するなら、殉教の苦悩と悲惨の極まりにおいてなぜ奇跡をおこさないのか。
この作品のもうひとつの主題は、日本的キリスト教の可能性の問題です。ザビエルのもたらしたデウスの神は、日本では大日の太陽崇拝と化し、彼ら信教はキリスト教徒ではないということは、確かに一面の真理であり、そこに日本国民一般の重大な特性が含まれているようです。

 ゴッドが世界を創造したことを前提とするキリスト教にとっては、創造した世界には普遍的な神的秩序があるはずです。それがなければ全信仰体系は崩壊します。ところが「日本人のキリシタンが信じているのは、キリスト教のゴッドではない。日本人は今日までゴッドの概念は持たなかったしこれからも持たないだろう。日本人は、人間とはまったく隔絶した存在のちがうゴッドを考える感性を持っていない」と、登場人物は語ります。

 クリスマスイブにお祝いし、除夜の鐘に感動して寝て、翌朝は墓参りをした後、初もうでに出かける。途中にでくわした、地蔵さんにも手を合わせるわれら日本人。一神教を求めるヨーロッパ文化からみれば許しがたい背信行為を、一週間の間に次々と平然とやってのけていささかの矛盾も感じない日本人。小説では、転向した(転んだ)神父は、殉教しつつある日本人ですら、彼らの「神々」を拝み信じていたにすぎなかったのではないかと考えます。

 氏はもちろん敬虔(けいけん)なカトリックであります。しかし、彼の切実な問いかけは異端ともとられかねません。彼は一種のプロテスタントになるのか、「日本的なカトリック」になるのか?と。
「日本的なカトリック」とか「西洋的なカトリック」などカトリック教会が許容できるはずがありません。「日本的」ということを認めれば、一神教の普遍性を自ら否定することになります。「日本的特殊」と「カトリック的普遍」のこの問題こそ、これまでそれこそ「日本的」に曖昧(あいまい)に放任されてきました。現在の日本で深刻な問題が噴出しているように私には思われます。

 会田雄二氏は日本人のこのような行き方は、何千年の古い日本の文化が生んだ生活の知恵であり、生活哲学といった深みを持ったものと考えざるを得ない、としています。人間の存在は有限であり、相対的なものである。一面的な原理で割り切ろうとするならば、当然そこに虚偽や無理が出てくる。そのことを洞察した上での即物主義、即自然主義が日本人の心情と日本文化の特質である、としています。

 神々を受け入れる寛容の文化と一神教の不寛容の文化。日本的なるものと西欧的なる法律体系のぶつかりあいは、雇用問題にもあります。一方では法的に明文化されていない終身雇用制があり、また一方には法律化された労働者の権利を守る普遍的体系。
長男の嫁と相続と老人問題でも文化の対決があります。伊勢市で催されたレディス文化祭に出席したところ、講師が「夫の父親が亡くなったら、兄弟で話したいから姉さんは席をはずしてくれと言われて一文ももらえないから」「夫の親が寝たきりになったら、月20万円が介護の相場だから、毎月兄弟からもらう契約をしろ。相続予定財産から、死後もらう契約をしておいてもよい」と法律や判例を並べたてて、得意そうにまくしたてていました。それより驚いたのは、そんな講師の話を、うなずきながらメモをとっている女性が多数いたことです。

 法律的にはその通りでしょう。黙って献身的に世話しているだけでは、死んでから集まってくる夫の親族が、法律を振りかざしたら手も足も出ないということはその通りであります。だが私たち日本人は、「世間」は、そういう行動を賢明だと許すでしょうか?

 厚生省の岡光前次官の退職金支払い問題で日本国民が怒ったのも、合法であると判明してからです。官官接待やカラ出張問題も、違法であるのに横行してきた、警察は逮捕もしないという不思議な事態の背景には、日本的特殊文化と西欧的普遍文化(この場合は公務員法・刑法)との衝突があるように考えられます。

 法律等で代表される西欧的普遍性を押し進めていくとき、日本文化は崩壊し日本国民は世界において、いてもいなくても変わらない矮小(わいしょう)な存在になることは間違いありません。

 伊勢新聞は地域の文化を守り、県民の文化を守り発展させるために存在する県紙です。
日々ニュースに接していて感ずることですが、一番肝心なところについては、沈黙しているものです。それは、歴史を読んでいてだれでも思い当たることであります。

 元日の良き日に当たり、沈黙に挑んでいった遠藤周作氏を思い起こしながら、県民の皆さまの負託におこたえすることをあらためてお約束して、ことほぎのごあいさつとします。今年もご支援のほどお願い致します。