「どうしようもないヤンチャ坊主たちが少しでも良くなるように、サッカーで厳しく優しく指導した」と当時を振り返ったのは、郵便局員として働くかたわら小学4年生でサッカーを始めた私を指導してくれた西田秀明コーチだ。
私はこれまでの35年間、サッカーに出会ったことで、また素晴らしい指導者に出会ったことで全てにおいて成長させてもらったと理解している。これまでの道のりで、目標であった全国高校サッカー選手権優勝や、プロサッカー選手としてのキャリア、現在は10周年を迎える会社を経営しながら、サッカークラブ運営や国体監督にも携わらせていただいている。環境は変わっても、幸運にもここまでサッカーに関わり続けられている理由は何か。自分でもこれまで深く考えたことがなかったが、過去を振り返ることで自分なりに考察してみたい。その中で、私のサッカー人生における経験が読者の方々に何かしらのプラスとなれば嬉しい。
私は5人兄弟の末っ子で、1人の姉を除く3人の兄たちは小学生から中学生までサッカーをやっていた。兄たちに付いてまわるうちにサッカーボールに触れる機会が多くあった。ほとんど記憶にはないが、壁に向かって蹴る兄たちのシュート練習に5、6歳の私がゴールキーパーをやらされていたと聞かされた。よく顔面にボールがヒットして泣きながらもゴールを守り続けていたそうだ。
私が通っていた小学校では、私が小学3年生の時の6年生たちの様子は異常であった。乱暴で集団いじめはありふれ、学校中で喧嘩が繰り広げられ、信じられないことにたばこを吸う者までいるという状況であった。要するに、90年代後半に新聞などのマスコミで騒がれた授業崩壊・学級崩壊状態となっていたのだ。そんな先輩たちを見ていた私を含む小学3年生の児童は、それなりの学級崩壊状態であったことは言うまでもない。私はそんな小学3年生の児童を引き連れるガキ大将だったのだ。
そんな学校生活を送っていた私たちが小学4年生になった頃、隣町にしかなかったサッカーチームが、私が通う小学校にも作られることになったのである。そのサッカーチームへの入団をいち早く勧めてくれたのが当時担任の船見先生だった。勉強に集中することが苦手な我々リトルギャングを、厳しくも熱心にサッカーを指導すると名高い西田コーチに成長させてもらう作戦だったようだ。今となってはその作戦に感謝している。「せめてサッカーだけでも一生懸命やりなさい」と半ば強制的にサッカーを始めることとなったのである。