サッカーとの出会い②

 私のサッカー人生は、ヤンチャが過ぎたおかげで周りの大人たちから半ば強制的に勧められ、小学4年生になった頃から始まった。この2年後には漠然とプロサッカー選手になりたいという目標を定め、さらにその6年後にはその目標であったプロサッカー選手になるという夢を実現できた。今になって振り返ると、我ながら非常に短い期間で成長を遂げたのだなと感心するのと同時に、極めて幸運だったことをあらためて実感する。

 サッカーボールにまつわる記憶を紹介したい。サッカーを始めた私に大人の事情で離れて暮らしていた父がサッカーボールを送ってきてくれた出来事を記憶している。その時の嬉しさは、34年経った今でも熱いものが込み上げてくるほどだ。記憶を辿ると、自分のサッカーボールは後にも先にも父から送られてきたアディダスのタンゴ1つだったように思う。当時のサッカーボールを手にした時の喜びは、ボロ雑巾のように擦り切れて灰色になったサッカーボールの記憶と共に、潜在意識に刷り込まれている。

 よほど嬉しかったのか、何かの影響か、ボールを与えられた私は自分でルールを決めてオリジナルのトレーニングを実行していた。それは、「手を使わずにボールと一緒に毎日を過ごす」というものであった。それがどれくらいの期間続けられたのかは記憶にないが、家と学校の約2㎞の距離をドリブルしながら行き帰りすることはもちろん、雨の日も晴れの日も、小川にボールが落ちても足を使って拾い上げた。また、授業中も机の下にボールを置いて足で触れていたりしていた。漫画「キャプテン翼」に影響を受けていたのか、コーチの教えだったのかは記憶にないが、サッカーに魅了されて行く感覚とともに、周りの大人たちがその様子を温かく見守っていてくれているという感覚がやけに心地よかった。

 仮に、現代社会においてサッカーボールを蹴りながら登下校する子供がいたとしたら、交通安全上の問題があるという理由から即刻取り締まりの対象になるだろう。その行為をやめなければ、その子供はチームから除名されるかもしれない。そうなると、彼は自己表現の機会を失い、変わり者のレッテルを貼られることになるだろう。

 学校生活における協調性に欠ける私にとって、唯一自己を表現し、自分自身の存在価値を実感できたのがサッカーだった。サッカーに向き合う私の様子を観察し成長へ導いてくれた周りの少数の大人たちによって、奇妙なその行動自体が守られていた。郵便局員の西田コーチや私の母親はよく、他チームの指導者や学校の先生たちと指導方針について衝突していたそうだ。私はそういった人たちの温かな放任指導によって、その後に活きた独自の精神と技術を養えたのである。

 現在も個性的で創造性に富んだ特別な選手は育っている。しかしその千倍の数の子供達の技術は金太郎飴のように皆同じように見える。環境が整い管理されることで削がれる能力もあることを、我々指導者は知っておく必要がある。

中田一三
中田一三

なかたいちぞう 1973年4月生まれ。伊賀市出身。四日市中央工業高時代に、全国高校サッカー選手権大会に3年連続出場。92年1月の大会では同校初優勝をもたらし、優秀選手に選ばれた。中西永輔、小倉隆史両氏と並び「四中工の三羽烏」と称された。プロサッカー選手として通算194試合に出場。現在三重県国体成年男子サッカー監督。