▼初詣の習慣のない家で生まれ育った。三重に移り住んで何となくお参りした神社に、以来初詣に通うようになったが、年末に引いた風邪で今年は除夜の鐘を聞いても出かける気になれず、40数年で初めて夕方の初詣となった。善男善女が変わらず列を作っていたが、参拝後にしばし見つめるのが習慣のかがり火が消えていたのが寂しかった
▼南北朝時代に戦に敗れて故郷の吉野に船で戻る途中に難破して流れ着いたという南朝の武将が祭神という。何となく我が身に似つかわしく思ったのだが、習慣のリズムが崩れてみると、こだわってきたことが疑問に思えてきた。800万の神の日本で、どこの神社に参っても神様に気持ちは通じるだろうなんて罰当たりな考えが芽生えたのは、もともと初詣の習慣がなかったからかもしれない
▼年末のNHKの恒例番組『ゆく年くる年』を見たせいもあるか。さい銭箱の上にある鈴「本坪鈴」を鳴らして二礼二拍手一礼をしていたが、わが通う神社には鈴がない。コロナ感染予防で外されたままで、どうも気分がでない
▼鈴は縄文時代の土鈴が原点で神秘の象徴とされ、神具としては神への呼びかけや、参拝者を敬虔(けいけん)な気持ちにさせ、荒縄などで結んだ鈴緒は神の通り道ともいわれる。魔除けなどの説もあり、クマよけに用いられるのも、発想の出発点にそのことがあるのかもしれない
▼コロナは手袋で防ぐとして、あるべき装置がないと、信仰心に魔が差しこんでくる気がする。神の前では無心でありたいものだ。今年は神社めぐりをしてみようか。