30歳転機、40歳は修行 少年野球指導で地域貢献 ヤマザキフェンス工業 代表取締役社長 山崎博さん

「周りが幸せになってくれるのがうれしい」と話す山崎代表取締役社長=四日市市日永東3丁目のヤマザキフェンス工業本社で

 四日市市日永東3丁目に本社を持つヤマザキフェンス工業は、中部圏内を中心に防護柵やフェンス、車両用衝突緩衝装置の設置をはじめ、外構工事など幅広く事業展開している。昭和42年、父親の正俊さん(74)が創業した。

 小学時代に読んだ漫画「巨人の星」の影響で、子どもの頃から野球ひと筋。4歳年下の弟、福生さんと一緒に、いつも野球をしていた。巨人フアンで、「漫画のように活躍する王さんや長嶋さんがかっこよかった。憧れた」と懐かしそうに目を細める。

 中学では野球部に入部し、3年間外野手としてレフトを守った。その後、野球の特待生として海星高校に進学。監督の勧めで投手に転換し、2年生の時には甲子園に出場した。「練習は厳しかったが、仲間がいたから頑張れた」

 高校卒業後は上京し、営業職に就きながら社会人野球を続け、プロ野球選手への夢を追い続けた。

 24歳の時、巨人の入団テストの最終選考で不合格となったことがきっかけで、夢はすっぱりと諦めた。「周囲がみんなライバルという環境の中で、メンタル面をコントロールできなかったのが1番の要因」と当時を振り返りながら、「いつも支えてくれたのはおやじだった。精神論をよく話してくれた」と父親の愛情を再認識する。

 転機は30歳の時だった。父親と共に働いていた弟から「人手不足で困っている。戻ってきてほしい」という強い要望を受け、後継者となることを決意した。

 それまでの仕事とは全くの異業種への方向転換。営業所長時代の経験を生かしながら、事業計画を立てたり、業務拡大に取り組み、着々と業績を伸ばしてきたが、いつの間にか自身の中で行き詰まりを感じるようになった。

 新しい方向性を見いだせず、暗中模索の日々が続くも、40歳で社長に就任。

 44歳の時「経営者として感じる力を養いたい」「経営や経済学の勉強をしなければ」との思いが芽生え、45歳からビジネススクール「グロービス経営大学院大学」で2年間学んだ。

 2年間は、仕事をしながら1日8時間、細切れの時間を活用して勉強し、優秀な成績で卒業を修めた。両立は大変だったが、得るものも大きかった。「今までの努力が間違いでなかったことが分かってすっきりした。必要だったのは自分の思いを伝えること」と自信を深め、「40代は修業だったから、わくわくする50代を期待している」と笑う。

 学びを生かし、2年前には地域社会への貢献と子どもたちの育成を目的に、スポーツ塾などを展開する「Y’Sスポジアム」を設立した。気分転換も兼ね、週3日はそこで子どもたちに野球の指導をする。

 「大勢でわいわいするのが好き。みんなでいると楽しくてついしゃべり過ぎてしまう。周りが幸せになってくれるのがうれしい」と人懐こい笑顔を向けた。

略歴:昭和39年生まれ。四日市市出身。平成16年ヤマザキフェンス工業代表取締役社長就任。現日鉄フェンス部門水無月会会長、県高校野球OB連盟副会長、海星OBマスターズ代表など。