-織部焼に魅せられて 希少な作品、多くの人に- 「ORIBE美術館」館長 西村克也さん

【「より多くの方々に品格に満ちた織部の魅力を伝えたい」と話す西村さん=四日市市安島で】

 桃山時代の織部焼をはじめとする日本唯一の茶陶専門美術館「ORIBE美術館」を平成24年、四日市市安島に開館した。創始者古田織部の織部焼と、美濃地方の陶工らが織部の指導の下、生み出した志野、黄瀬戸、瀬戸黒、美濃伊賀などの茶わん、水指、香炉など桃山から江戸初期に作られた茶道具に特化した希少な作品を展示している。

 昭和46年、28歳の時に鈴鹿市平田町で「西村美術」を創業以来、半世紀にわたって美術工芸品の販売に携わってきた。中国から輸入した玉製品や象牙細工、国内外の絵画、アンティーク家具などを取り扱い、50年代から、伊勢市と四日市市で美術品オークションを毎月催してきた。

 好景気の中、新築ブームもあって業績を大きく伸ばしたが、平成に入り、バブル崩壊後の不況で売り上げが減少したため、現代美術品から古美術品へと業態をシフトしていった。

 度会郡で9人きょうだいの4男として生まれた。小中時代は、まき割りや麦踏みなどの家の手伝いが終わると、友達と近くの宮川で泳いだり、アユ釣りをしたりして遊んだ。

 伊勢工業高校機械科に進学し、3年間柔道に打ち込んだ。卒業後は本田技研工業に就職し、プレス加工の仕事に慣れた2年目から三重短大法経科の夜間部に通い始めた。短大卒業後は工場から労務課の事務職に抜擢され、労務環境の改善や社内報編集の仕事をするようになった。その後、営業部に移動となり山口県と佐賀県の営業所でホンダ車の販売に携わった。

 「いつか起業して一国一城の主になりたい」―。長年抱いていた漠然とした思いがせきを切ったようにあふれ出し、9年間務めた本田技研を退職した。「創業者本田宗一郎社長の人間味あふれる人柄、その哲学に直接触れられたことが生涯の宝物です」と振り返る。

 何をすべきか決められないまま、名古屋市の書籍販売会社に再就職した。セールストークを学び、2年でトップクラスの営業マンになった。

 その頃、建築業の知人から新築ブームで美術工芸品の需要が高まっていると聞き、迷わず書籍販売会社を退社した。すぐに国内外の美術工芸品を扱う商社や貿易仲介会社の調査を始め、信頼できる会社から商品を仕入れた。「西村美術」を創業して小規模な展示販売を始めた。

 40代の頃、愛知県犬山市の陶芸家で織部焼の収集家、鑑定家でもある人を訪ねた折、織部焼の躍動感あふれる造形と力強さに衝撃を受けた。400年前に作られた茶碗がまるで焼き上がったばかりかと錯覚するほど美しく、作品が放つエネルギーに魅せられ、収集を決意した。

 まず、本物に触れて目を肥やそうと国内の美術館を巡り、並行して文献などで古美術の研究を始めた。美術骨董店を回り、オークションにも参加して気に入った焼物を購入した。また、親しくなった愛好者らと互いのコレクションを交換し合ったり、譲り受けたりした。

 古田織部から2代将軍への寄贈品とされる「総織部葵文硯」、美濃市在住者から譲り受けた日本に2つしかないといわれる「総織部獅子鈕香炉」、「織部扇面鉢」や「絵志野南蛮カルタ文大鉢」、「赤志野草文香炉」など入手した50点余は、自分だけでなく多くの人に楽しんでもらいたいと考えるようになり、美術館開設につながった。

 「これほどの作品を一堂に見られて満足」「改めて日本文化に誇りを感じた」など、県内外から訪れる愛好者らの声がうれしい。日本の美術館巡りをして最後に立ち寄ったという英国の美術家は「桃山の作品は自然そのもののよう。大変感銘を受けた」と、帰国後に便りが届いた。

 子どもたち4人が独立後は、妻早苗さんと紀州犬伯狼と暮らしている。「妻と年に1度は温泉旅行を楽しみ、任せっきりだった子育てや家事の労をねぎらい、感謝を伝えている」と話す。

 5年前に発刊した著書「桃山の美濃古陶・古田織部の美」の第2弾発刊に向けて執筆を進めている。「展示品の充実を図り、常時予約なしで入館できるような体制にして、より多くの方々に品格に満ちた織部の魅力を伝えたい。また、児童生徒の夏休みの研究課題などには無料開放して協力していきたい」と語った。

略歴: 昭和18年生まれ。同36年県立伊勢工業高校卒業。同年本田技研工業入社。同44年書籍販売会社入社。同46年西村美術創業。平成24年ORIBE美術館開設。同26年四日市ライオンズクラブ会長。令和元年東久爾宮文化褒章受章。