-サッカーで自分に自信 起業、義父の会社と両立- 「浜村工務店」社長 浜村弘司さん

【「仕事の大小を問わず、何でも相談できる地域密着型の建設屋を目指したい」と話す浜村さん=鈴鹿市南玉垣町で】

 鈴鹿市南玉垣町の「浜村工務店」は、大工職人だった義祖父の故末治さんが、昭和20年代に「浜村組」として同市南若松町で創業。同40年、2代目となった義父弘さん(81)が住宅建設から公共工事に移行し、法人化して「浜村工務店」とした。平成14年に会長に退いた義父から経営を引き継いだ。

 同市南若松町で2人兄弟の次男として生まれた。幼少時は文武両道の兄といつも比べられ、「ほんまにあいつの弟か」と担任に言われるほど勉強が苦手だった。保健体育以外オール1の通信簿を見て、両親は頭を抱えていた。

 愛宕小4年の時、何気なくサッカー少年団の練習を眺めていると、「お前もやるか」とコーチに声を掛けられた。それをきっかけにサッカーに打ち込むようになった。6年生でキャプテンになり、市代表として中日本大会に出場を果たした。千代崎中、四日市農芸高でもサッカー漬けの毎日を送った。「サッカーを通して、初めて自分に自信が持てた。恩師との出会いが人生を大きく変えてくれた」と振り返る。

 卒業後は、地元でサッカーができる本田技研に入社。車両組み立ての仕事の後はサッカークラブの練習に励んだ。高校の後輩だった公子さんと20歳で結婚後は、妻の両親と同居するようになった。妻の姉家族が近くに住んでおり、金物職人の義兄から物づくりの楽しさを教わり、やりたいと思えることを見つけた。

 10年間勤務した本田技研を退職し、「ハマムラ工業」を起業。トラックに溶接機を積み込んで、義兄や知人に紹介された現場を回ってアルミやステンレスの手すり作りなど、金属加工を手掛けた。収入が安定しない時期が続いたが、7年目位から仕事も安定し、社員も5人に増やして平成12年には法人化した。

 その頃、リーマン・ショックの影響で建設業界も不況に陥り、会社をたたむことを考えていた義父から「1年で閉めてくれてもいい、やってもらえないか」と打診があった。ようやく軌道に乗せることができた「ハマムラ工業」のこともあり、熟慮の末、両立させることを決意して経営を引き継いだ。

 義父がこれまで築き上げてきた信頼と実績を損なわないよう、現場仕事から見積り作成、経理事務まで無我夢中でこなした。その傍ら、一級建築・土木施工管理士資格取得にも取り組んだ。会長職に就いた義父は経営には一切口出しをせず、業者との折衝や入札などについて教えを請うと、経験から得た知識を惜しみなく伝授してくれた。

 浜村工務店とハマムラ工業の相乗効果で、基礎工事から鉄骨組み立て、建設までワンストップでカバーできるようになり、コストの削減と収益増につながった。それを施工費に還元し、売り上げも伸ばすことができた。社員や下請け業者には「安全第一」をモットーに、自己管理の徹底と「目配り・気配り・思いやり」の精神で仕事に当たろうと話している。

 現在もサッカー・シニアチーム「F1鈴鹿」の選手として、県リーグに参加している。「自分のやりたい事ばかりを優先してこられたのは、妻の理解と支えがあったから。2人で過ごす時間をつくり、ゆっくりと旅でもして労をねぎらいたい」と話す。

 「これからも力を尽くして、家庭のリフォームから公共施設建設まで、仕事の大小を問わず何でも相談できる地域密着型の建設屋を目指したい」と目を輝かせた。

略歴: 昭和40年生まれ。同58年県立四日市農芸高校卒業。同年本田技研入社。平成元年ハマムラ工業創業。同14年浜村工務店社長就任。同29年鈴鹿商工会議所建設部会副部会長就任。同30年県建設業協会鈴鹿支部副支部長就任。