社会の安全・安心を 働きやすい職場づくり図る 「三重綜合警備保障」会長 竹内裕さん

「地元に愛される警備保障会社として、一層の研さん努力を続けていきたい」と語る竹内さん=四日市市鵜の森の「三重綜合警備保障」で

 四日市市鵜の森の三重綜合警備保障は、昭和43年、綜合警備保障(ALSOK)の加盟社として、四日市警察署長と四日市消防長を歴任した父の故鐵雄さんが創業。同55年、父を継いで35歳で社長に就任した。

 創業当時は、約50人の社員を派遣して公共や民間施設の常駐警備と夜間巡回が主流だった。技術の進歩により、3年ほど後には建物内に盗難、火災感知センサーを設置し、異変が起こると駆け付ける機械警備へと移行してきた。時代とともに多様化、高度化するニーズを的確に捉え、業界のリーディングカンパニーとして業績を伸ばしている。

 四日市市滝川町で、5人きょうだいの3男として生まれた。父の転勤で、転校を繰り返していた小学時代は内気な性格だった。中学では、陸上競技三泗大会の三段跳びなどで活躍する一方で、「継ぎはぎが当たったお下がりの服が恥ずかしくて、好きな女の子に告白できなかったことが今でも忘れられない」と笑顔で話す。

 四日市高校から、三重大学学芸学部に進学。勉学の傍ら、少林寺拳法部に入部して練習に励んだ。2年生で出場した東海大会で、指導してくれた名城大生に勝って3位入賞を果たし、恩返しができたことがうれしかった。4年の時、友人に紹介されたファッションモデルのアルバイトを通して、スポットライトを浴びる快感を体験した。

 卒業後の職業選択肢に、教師と少林寺拳法家に加え、男性モデルが入った。悩んだ末、好不況に左右されない公務員を選び、保健体育教諭として木曽岬中学校に赴任した。新任の年から、女子バレーボール部の顧問を担当。未経験の球技をルールの基礎から学び、監督兼コーチとして戸惑いながらも生徒と共に汗を流した。

 その年の秋、桑名大会新人戦で優勝、翌年夏には、同校初の団体競技県大会出場を勝ち取った。「勝って泣き、負けて泣きながら、素人の自分についてきてくれた生徒たちと一体感を味わえた」と振り返る。

 教職に就いて4年後、父から「仕事が軌道に乗ったから、戻って来ないか」と言われた。部員らに心を残しながらも退職を決め、27歳で三重綜合警備保障に入社した。営業から警備、技術部門で経験を重ねるとともに、社員が働きやすい職場作りのノウハウ、高品質の警備技術をセミナーや専門書で学んだ。

 「明日から社長をやってくれ」―。昭和55年の株主総会の前日、父から告げられた。「いつかは父の跡を継ぐことになるだろう」という思いはあったが、突然のことに驚きと不安が押し寄せた。「父が築き上げてきた顧客の信頼と、社員の生活を守る」と決意し、新社長に就任した。

 現在は、四日市本社と桑名、鈴鹿、津など県内8営業所の社員約250人と、子会社5社の社員約200人が、社会の安全・安心のニーズに応え、地域に根差したきめ細かなサービスで着実に成長している。春秋の全体研修後の懇親会や国内外への旅行費補助、社員同士が感謝の気持ちを伝え合う「サンクスカード運動」などで、楽しく、働きやすい職場づくりを図っている。

 家では、妻佐知子さん(66)と4人の子どもたちに得意な料理の腕を振るう家庭的な一面も見せる。「おいしい、また作ってね」の言葉に自信を得て、友人らを招いてもてなすこともしばしばという。

 「県内各地の小学校で開くあんしん教室などの社会貢献活動を続けるとともに、地元に愛される警備保障会社として、一層の研さん努力を続けていきたい」と語った。
  

略歴:昭和20年生まれ。同43年三重大学学芸学部(現教育学部)卒業。平成5年県警備業協会会長就任(同18年まで)。同16年四日市南地区警備業防犯部会長就任。同18年警察庁長官賞受賞。同25年四日市商工会議所監事と不動産部会長就任。