桜と別れと出会い (97.4)

 入社試験の面接に、四月二日に上京しました。タクシーで、靖国神社の前を通りかかったところ、大渋滞でした。靖国訴訟の判決日の関係かと運転手さんに聞いたところ、「花見客ですよ。週末は雨だということで、あと二日ぐらいしか桜は見られないということで、この混雑ですよ。」ウィークデーの昼間から(運転手さんによると朝かららしいが)花見酒というのは、この不況下にあきれた話ですが、それはともかく、薄桃色の桜の花はいろんなことを思い起こさせてくれました。

 桜といえば、卒業と入学、別れと出会いにつきものなのが日本です。「ぱっと咲いてぱっと散る」だからいいのだと、三十年ほど前「春宵十話」で数学者の岡潔氏が語っていました。当時高校生だった私には理解できない言葉でした。しかし人生の残り時間が残り少なくなってきたことが自覚できるようになった昨今、少しは桜の良さがわかるような気がします。

 「散る桜、残る桜も散る桜」これは四月五日に行われた、筆者が学生時代にお世話になった、文京区の寺院の僧りょの十三周忌に来られた僧りょの言葉です。
別れることによってのみ人は成長すると言います。家族、住み慣れた町、愛着のある都市、通い慣れた大学、それらと別れることによって、すこしずつ変身していくのです。

 胎児は安全で静かな羊水から別れ、完全な栄養源であり呼吸・排せつの作用を営む胎盤から離脱することにより、生まれることができます。母体から離脱しなければ、母親も胎児も共に死んでしまいます。
「会うは別れの始め」といいますが、別れに寂しさやわびしさを感じたりするだけでは、日本人好みのセンチメンタルなレベルにとどまるだけです。切れて、つながり直すと、新しいものが生まれます。学生は卒業式で学校との関係が切れます。そして就職して、会社で別の関係を持ちます。そうすると新しいものが生まれてきます。

 創造するという観点からすれば、「別れは会うの始め」であるわけです。企業のリストラもこの見地からすれば、会社も個人も共に、生きるためには別れなければなりません。別れることによって、両者が生きることができるのです。たとえそのときはどれほどつらくとも。

 私は日本新聞協会加盟社の社長のなかで唯一の一級建築士だそうですが、建築という行為は切り取ることとつなげることだけといって過言でないことに注目してきました。わかりやすく言うために住宅を例に取ると、作るための道具はほとんどが切る道具かつなぐ道具です。カンナ、ノコギリは切る道具。くぎ、接着剤はつなぐためのもの。カナヅチはノミで切るときと、クギで打ってつなぐときに使います。建築に限らず、作る営みは「切る」ことから始まるようです。和服、洋服を作るときもまず生地を切ることから始まります。

 いったんそれぞれの道を進むために別れた人たちが紆余曲折(うよきょくせつ)の末、再び会って新しい関係をつくるときが来ればどんなに素晴らしいでしょう。一九六〇年代の大学生の愛読書「されど我らが日々」はヒロインの死をかけたこの叫びで終わっていた記憶があります。

 わが社も、桜の散る中、十一名の新入社員との出会いがありました。県民の皆さまの負託にこたえられる一人前の社員になれる日が、一日も早く来ることを期待しつつ、報告させていただきます。