時間と金

 『斉の太祖高皇帝、毎(つね)に曰く(いわく)、我れをして天下を治むること十年ならしめば、黄金をして土の価に同じからしむべし。』
(私がもし十年間政治をやったなら、必ず人民に倹約の徳を教えて、黄金などは、土くれの価と同じように安いもので不必要にしてみせる。)
という文が十八史略には見受けられます。

 以来、壱千数百年を経て、黄金は、ほとんどの現代人にとって価値は増大するばかりです。
一昨年、ある代議士の後援会で講演をした後の懇親会の二次会に、とある小料理屋に案内していただきました。駐車場も豊富な、座敷もカウンター席もたくさんある、割合と大きなお店でした。時は過ぎて行き、宴も果て、お開きになって迎えの車に乗り込もうとしたとき、送りに来てくれたその店の女将が、初対面にもかかわらず、思いつめたように話し掛けてきました。

「永年やってきて、良いときもありましたが、ここのところ、ながく低迷が続いています、どうすればよいでしょうか。」

 お店の作りと傷み具合から察していた通りの経営内容のようでした。
「昔は日本はみんな貧乏でした。生まれてから死ぬまで半径40キロくらいの範囲内で生活していただけだったようです。」「その頃は、満足に美味しいものを食べることが人々の欲望でした。」「移動することによって、人は財物、財貨を得ることができ、新しい知識を獲得して金儲けにつながります。」「移動ということを考えてください。」「商売の商は移動する。あるところから無いところへ動かす。という意味がありますから。」それだけ言ってその場を去りました。

 人類はただひたすらに急ぎます。文明人にとってはスピードのあるものには価値があります。余分の対価を支払う値打ちがあるのです。新幹線のぞみ号は、こだま号より乗車料金が高いのです。高速で走る能力のある自動車は、高価であり、それ故人々の憧れの的となり、独自のデザインとあいまって、ますます高価であり続けます。飛行機や電車に乗った乗客が、乗務員にたずねることは一に「あと何時間で到着するか。」だそうです。何故急ぐか。私達が意識しているかどうかにかかわらず、死をどこかで恐れているからではないでしょうか。

 Man is mortal. 人は死すべきものである。

 という古言は人類がある限り永遠の真理であります。
私たちの生の時間は限定されています。一方、金銭の対価さえ支払えば快適に空間を移動できる時代となりました。昨夜は満員電車で揺られていたのが、翌日の昼には香港島はグランド・ハイアットホテルの36階にあるリージエンシークラブのラウンジにいることが可能な時代なのです。九竜半島との海峡を行き来するサンパン(帆船)を見下ろしながら、クラブのサービスである無料の食前酒を飲んでいる自分が不思議になることがありますが、実は何の奇妙さもありません。自らの所有している信用の力であるわけです。(なにしろ支払いはVISAカードで済むわけですから。)その背後には日本国の国力があるわけです。

 余談ですが、国際会議場と長い廊下で結ばれていて便利ですからここを使いますが、料理は九竜にあるハイアット・リージエンシーホテルの凱悦軒のヌーベル・中華の方を好みます。概して、共産化されてから、香港の食は英国植民地の古きよき時代から、コミュニスト・チャイナ・香港の中華料理となったのが残念です。失礼ながら、共産化されると料理はまずくなるのではという危惧は当っているようです。久しぶりの陸羽茶室など哀しくなってくるほどの凋落振りでした。

 文明は時間と空間を克服してくれます。たとえそれが一瞬の錯覚であるにせよ。黄金を得て,快適さを手に入れた我々がさらにそれを得ようとするのは不可避のことであり、中国をはじめとする途上国の人々が、黄金を求めて経済活動に大童(おおわらわ)であるのは文明人として自然なことであります。