何のための景気回復― そして映画「黄金」

  こういう表題を掲げますと、売り上げ減に苦しみ、雇用確保に苦心惨澹(くしんさんたん)されておられる会社経営者・個人事業主の皆さまからおしかりを受けるのは百も承知であります。また、リストラにおびえ、まだまだ残っている住宅ローンの残高に悩む一部の県民の皆さまに不快感をもたらすだけであるかもしれません。しかし時あたかも世紀末ということでもあり、太平洋戦争後の焼け跡からしゃにむに走り続けてきた私たちが立ち止まって考える好機であるのではないでしょうか。

  「とにかく経済復興だ。欧米に追いつけ追い越せだけで、今度の戦争の反省もなしにただただ駆けてきてしまった」(戦中派の死生観)という意味のことを書いておられたのは傑作「戦艦大和ノ最期」を著わした、沈没した大和から文字通り九死に一生を得て生還した、吉田満氏でした。

  (以下の文中のアイデンティティーという言葉は、「自己確認の場」あるいは「日本人とは何か」というふうにご理解いただければ良いのではと思っています)
「戦争責任は正しく究明されることなく、馴(な)れ合いの寛容さの中に埋没した」「敗戦によって、いわば自動的に、自分という人間は生まれ変わり、あの非合理な戦争に突入した日本人の欠陥も、おのずから修正されるものと、思い込んだ」「しかし抹殺されたはずのアイデンティティーはもとより死んだわけではなかった。敗戦の痛手を受けた日本が、汲々として復興作業にはげんでいる間は、たしかにアイデンティティーをほとんど意識することなく、『私』の幸福の追求が、そのまま国の発展につながるように思えた。むしろアイデンティティーの枠から解放されていることが、国民労働の質、経済効率の向上に専心することを容易にした」

  しかし昭和30年代の高度成長期を過ぎるころから、自由経済諸国の中で日本が無視できぬ存在感を持ち始めるにつれ、外国は当然、アイデンティティーの枠の中で、日本をとらえる方向に急速に変化してきました。

  「肝心の日本人だけは、相変わらずアイデンティティーを無視し、国籍の束縛から解き放たれたまま海外に進出し漂流することが、許されると楽観していた」

  「アイデンティティーの枠をいつまでも無視できると即断したところに、国際社会の一員として生きる資格のない、日本人特有の甘えがあった。敗戦を契機に、アイデンティティーの意味をあらためて確認し、その内容を充実させるために努めるべきだったのに、アイデンティティーそのものが、日本人の発想の中から、意図的に排除された」

  「そもそも経済発展によって得られた国力の増強、発言力の増大は、それだけでは意味を成さないのであり、それを何に役立てるか、アイデンティティーの確立のためにどう生かすかが、問われている課題だったはずである」

  いささか長い引用で恐縮ではありますが、21年前にこの文章は発表されています。10年1日という言葉がありますが、21年たっても何も変わっていない感がするのは私だけでしょうか。すなわち、相も変わらぬ無反省、無責任、責任の押し付け合い、スケープゴートの逮捕でお茶を濁して一件落着したとして、幕引きとする、といったやり口です。占領軍が戦犯容疑者と指名した日本人を国内で追い詰めたのは、敗戦国日本の警察官であったようです。

  「いつまでもあんな好景気が続くとは思っていなかった」とか「あんなに簡単に株で金がもうかるのはおかしいと、おれは思ってたんだ」「あのころが異常だったんだ。そういう意味では今が正常なのさ」と、したり顔で語られる方もよく見かける昨今です。

  日本人のこうした慣習のようなものはいつの時代から来ているのでしょう。今度の太平洋戦争における敗戦後にも「負けると思っていた」「世界を相手に無謀なことを始めたと思っていた」などの言論を発表している方は多いです。

  こういう後講釈には破綻(はたん)がありません。結果が出てしまってから解説をするわけですから。21年どころか53年前に、太宰治は戯曲「冬の花火」のなかで日本人について痛烈に批判し、疑問を投げかけています。(太宰については別の稿を立てます)

  「いつから日本の人が、こんなにあさましくて、嘘つきになったのでせう。みんなにせものばかりで、知ったかぶってごまかして、わづかの学問だか主義だかみたいなものにこだはってぎぐしゃくして、人を救ふもないもんだ。人を救ふなんて、まあ、そんなだいそれた、(第一幕におけるが如き低い異様な笑声を発する)図々しいにもほどがあるわ。日本の人が皆こんなあやつり人形みたいなへんてこな歩き方をするようになったのはいつ頃からの事かしら。ずっと前からだわ。たぶんずっとずっと前からだわ」

  「つまり太宰は、戦後の変革とは名ばかりで、右といえば右、左といえば左、とみんな一斉に同じ方向へ動く日本人の性質が、昔からまるで変わっていないと見抜いていたのです」-長部日出雄   (以上の太宰治関連の文はすべてNHK人間大学「太宰治への旅」テキストによります)

  第二の敗戦の戦後処理はいまだに終わっていません。それどころか、第一章で小生が言及しましたように、米国から仕掛けてくる経済戦争はいまだ続行しています。金融機関の米国資本へのただ同然の売却、相次ぐ国内銀行の合併、それに伴い当然予想される系列会社の再編、合併。こうしてみますと経済がわれわれ日本人の生活様式、物の見方、考え方に大きな、決定的な因子となっている現代であります。

  人間を幸せにしてくれるはずの金を稼ぐために、苦労をしたり、もっともっと金を得るために大失敗をしてしまう現代人。人間は進歩しているのか。人口が増えてきただけにすぎないのか。といった命題を異国に向かう飛行機内で反すうしていた時、B・トレヴンの原作による映画「黄金」のことを思い出しました。ここで紙幅も尽きたようです。

  次回は、原題が「シェラネバダの黄金」というジョン・ヒューストン監督、ハンフリー・ボガード主演、監督の父親であるウォルター・ヒューストン助演、音楽がマックス・スタイナー作曲の、世紀の怪作といっても過言でない、映画「黄金」についての拙文をご笑覧ください。「金とは何か」がメキシコを舞台に語られています。