不況と草原の輝き~第二の敗戦に想う~

  日本国のこの60年を振り返ってみますと、アメリカを相手に、軍事力を駆使した戦争には完敗しましたが、第2ラウンドとして、期せずして経済戦争を挑んだかたちとなりました。最初は調子よく行って、アメリカ合衆国はニューヨーク市の、ロックフェラーセンターまで買収できたのですが、途中から大反撃を食って、気が付いてみたら、丸裸にされつつある、そういった状況が今の日本であるようです。ここからが、淡白な私たち日本人と肉食人種との違いなのか、参ったといっているのに許してくれず、とことんしゃぶり尽くそうとしているようです。「水に落ちた犬はたたけ」の国と「情けは人のためならず」の国との違いかも知れません。法人の吸収・合併あるいは、少しばかり高い利息を餌に、円売り・ドル買いを誘って日本国の富の海外流出が進みつつあるとも聞きます。

  敗戦国の常として、戦犯探しが始まりました。役人・官僚がやり玉にあがっています。本当にそうなのかどうかは、稿を改めてじっくり考えてみたいと思っています。
90年以来長引くだらだらした不況の中、昨年11月には、津市の目抜き通りであるフェニックス通りにある山一證券津支店の自主廃業発表後に行列した1200人もの人たちを見てショックを受けました。整理と再生・諦観(ていかん)の必要、そういった言葉が思い浮かんだとき同時に思い出された映画がアメリカ映画「草原の輝き」でした。

  1961年に製作されたこの映画は背景が1928年前後となっています。映画そのものは、今となっては古色蒼然たるものがあります。ハイスクールに通う男女の恋を描き、肉体を求める男性を理解できているのだが、カンサス州南東部の地域的、家族的、倫理による締め付けの呪縛から罪悪感をぬぐえなず、拒否しつづけるヒロイン。一方、男性は苦しむ恋人を見て、自分が罪深いのかと悩み、教師や医師を訪ね、思い切って相談します。返ってくる答えは、にたにたした大人の顔だけでした。衝動的にほかの女性とデートしてしまう男性。

  それを知ったクラスメートの好奇の目に耐えられず、精神障害をおこし入水するヒロイン。映画そのものも長時間ものであり、やや冗漫でもあり、性道徳を守れという映画かと取り違えていたこともあり、あまり好ましい印象をこの映画には持っていませんでした。(当時、小生は17歳の青二才でありました。) この映画が当時の日本の高校生・大学生に大いにもてはやされたのも事実であります。それは題名にも引かれている、アメリカの国民詩人ワーズワースの青春を歌った詩が映画の中で2回登場することにもよっていたようです。

  37年も前の映画を今思い起こしますのは、この映画の裏糸を構成しているのが、バブルの崩壊による大不況だからです。映画の冒頭、主人公パッドとのデートから帰ったヒロインの娘に母親は、「パッドのお父さんの石油会社の株がまた上がったのよ。」と喜びと興奮を交えて告げます。母親もその株を所有しています。ワンマン経営者であり、家庭内では暴君であるパッドの父親は、息子をエール大学へ進ませ東部の大立て者に仕立てる夢をもっています。農場経営をしたい息子を押さえつけ、エール大学へ進学させますが、成績不良で放校を告げられた夜、ウオール街の相次ぐ暴落で破産した父親は自殺します。ヒロインは両親の所有していた値上がりした株を売った代金で、療養所に入り回復します。
療養所に金を払い込んだ後、母親が新しい家を買うのも駄目になったと嘆息し、父親が娘のためだと妻を慰めているとき、近くのラジオが暗黒の木曜日の暴落を告げました。

 快癒したヒロインが、療養所で知り合った男性と婚約したことを知っている担当医はヒロインにパッドと会うことを勧めます。「パッドへの気持ちを確かめずに幸せになれますか。」と。会うことによって病気が再発することをおそれるヒロインのティニーにこう説明します。「恐怖は直視すれば消滅します。」「会わないでいるうちは治ったことになりません。」
なんだか昨今の日本経済、金融機関の行き詰まり問題の解決法を暗示しているような気がするのは私だけでしょうか。

  担当医師に励まされて退院したヒロインは、自宅に戻ります。ティニーが帰っていると聞いて恐る恐る集まったハイスクールの仲良し3人組と再会して、大喜びして騒いだ後、ヒロインはこう切り出します。「パッドに会いたい。どこにいるの。」 ティニーの母親に口止めされていた娘たちは、母親の視線の下、顔を見合わせるだけでした。気まずい沈黙を破ったのはリタイヤして、窓際で新聞を読んでいた父親です。

  「パッドはタルサ郊外の農場にいる。」と断固として宣言します。
無精ひげが生え放題で、土と汗にまみれた作業服を身にまとった、しかしまじめに働いている様子のパッドと数分間話して、婚約したことを告げた後、ヒロインは、興味津々(しんしん)で車のなかで待っている友達たちのところに戻ってきます。
「今でもパッドを愛している?」と聞く友にかぶせて詩が朗々と詠まれます。

『 かつては目を眩(くら)ませし
光も消え去れり
草原の輝き
花の栄光
再び環らずとも嘆くまじ
その奥に秘めたる力を見出すべし 』
(映画の原題はSPLENDOR IN THE GRASSです。)

  不勉強な私は、この詩の意味が未だにはっきりとはわかっていないことを告白します。
ただこの詩が、イエスの言葉を踏まえていることはわかるようになりました。

  『なぜ着る物のことで心配するのか、野のゆりがどうして育つのか、よくわきまえよ。
働きもせず、紡ぎもしない。』(マタイ福音書6章28節)

  『しかし私はあなたがたに言う。栄華を窮めた(きわめた)ソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいなかった。今日あっても、明日は炉になげ込まれる野の草さえ、神はこれほどに装って下さるのだから、ましてあなたがたに、よくしてくださらないわけがあるであろうか、信仰の薄い人たち。』(同6章29,30節)

  人間の栄光のすべてをソロモンは獲得したといわれています。しかし、イエスはそのソロモンの栄華でさえも、たった1輪のゆりの花の美しさには及ばないと喝破しました。
だから人よ、自らの内を見ることなく、虚しく歩むことを止めよと述べたのです。

  『そういうわけだから、なにを食べるか、なにを飲むか、なにを着るか、などといって心配するのは止めよ…。だから、あすのための心配は無用である。あすのことはあすが心配する。労苦はその日その日に、十分ある。』(同6章31,34節)

  ローンの支払いを心配し、会社のリストラを案ずる私たち日本人にとってなんと勇気づけてくれる言葉でしょう。また私たちに深い反省を促す言葉でもあります。
ラジオで金融再生関連法案の国会審議を聞きながら、国民のために激しい論戦を繰り広げておられる先生方には申し訳ないですが、イエスの言う「野のゆり」、それは今で言う「野のケシ」のことだそうですが、その花を見たいなと思ってしまいました。(つづく)

<参考>——————————————
伊吹おろしの雪消えて
(第八高等学校 大正五年度寮歌 大正5年)
中山 久 作詞、 三橋 要次郎 作曲

伊吹おろしの雪消えて
木曽の流れに囁(ささや)けば
光に満てる国原(くにはら)の
春永劫(えいごう)に薫るかな

夕陽あふれて草萌(もゆ)る
瑞穂(みずほ)が丘に佇(たたず)めば
零(こぼ)れ地に咲く花菜(はなな)にも
うら若き子は涙(なみだ)する

見よソロモンの栄耀も
野の白百合に及(し)かざるを
路傍の花にゆき暮れて
はてなき夢の姿かな

花に滴(したた)る日の水沫(みなわ)
命(めい)の啓示(さとし)を語るとき
希望(のぞみ)にたぎる若き頬を
はるかに星はてらすなり
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  出典は最後に示します。