みなさんからいただいたメールのご紹介

中島 雄一 氏 からのメール

 謹啓

 時下ますますご清祥のこととお慶び申し上げます。
この度、小品『千年火』が、昨秋の「東京国際映画祭・RIFF2004」公式上映に続き、世界でも特段由緒ある「ベルリン国際映画祭」においても出品される運びとなりました。
これまで製作・上映にご協力、ご支援いただいた皆様には年初の吉報としてご報告申し上げるとともに、未見の皆様方には、この機会に一層のご注目を賜りますようお願い申し上げます。

 「ベルリン国際映画祭」は、今年で55回を迎え、カンヌ、ベネチアと並んで、世界三大映画祭のひとつに数えられる著名な映画祭です。日本映画では古くは黒澤明監督の『羅生門』が、最近では宮崎駿監督の『千と千尋の神隠し』が最高賞を受賞したことで知られています。
小品『千年火』は、こうした大作が並ぶメインコンペ部門ではなく、青少年をテーマにしたキンダーフィルム部門での出品となりますが、地域の皆様とともに作り上げた映画としては大変貴重な機会と関係者一同喜んでおります。

 2月中旬に、主演と村田将平とともに、極寒のベルリンに行ってまいります。その様子は、いずれの機会にご報告申し上げたいと思います。

 現在は次回作の準備中です。継続的に佳作を世に送り出すべく真摯に邁進してまいりますので、今後ともご指導・ご支援の程、宜しくお願い申し上げます。深謝。

謹白

監督 瀬木直貴
2005年1月吉日

 ソウルボート 中島 雄一

前川 正博 氏 からのメール

 お忙しい中をコラムを読んでいただいたありがとうございます。
メール、光栄に思います。こういう励ましをいただけると、元気が出てきます。

 ホームページを拝見して、小林さんのお勧めの中国の盗賊の本をすぐにAMAZONで注文しました。
良い本があったら又ホームページでご紹介ください。

 映画「草原の輝き」には私も思い出があります。
私が20過ぎてから、生まれて初めて見た種類の映画だったせいもあって、印象深かったです。
私は夏の光に輝いているのが好きだったようで、タイトルに惹かれました。
その頃読んだ小説では「8月の光」というのも覚えています。

 その1,2年後の1969年に初めての海外旅行でモスクワからヘルシンキに汽車で入りました。それからそのままデンマークに住んでいます。
北ヨーロッパは非常に乾燥した長い夏で、8月のどこまでも続くフィンランドの光り輝く草原に「草原の輝き」を思い浮かべました。
空気が乾燥して光は強く、草原は幻想的に、本当に眩しく光り輝いていました。

 あの映画で私が覚えていてホーム・ページに載っていない、と思ったのは、若者がヒロインと付き合っていることを知ると、若者の 父親が止めようとするところです。
若者の父はヒロインの父親とは古い友達です。

 若者の父が言うには、ヒロインの父親は「いい奴だが野心が無い」。
友達の娘だから、付き合ったら結婚しなければならない。
だから「あの子と付き合ってはいけない」。
「もっといい奴を見つけろ・・・」ということだったと記憶しています。

 久しぶりに思い出して懐かしかったです。

 前川 正博

F・M氏からのメール

 小林さんの文章を拝読し、戦争による別離と不幸な再会を描いた、ヴィットリオ・デ・シーカ監督の「ひまわり」を思い出しました。10代の頃観たときと結婚後の30代で観たときとでは受け取り方もかなり違って見えました。

 独身の頃は映画の主軸となるマストロヤンニとソフィア・ローレンの悲恋に涙腺が緩みっぱなしでしたが、結婚後の今は、2人の背後に隠れがちで、登場場面も少ないロシア女性(リュドミラ・サベリーエワ)の側から描けば、180度変わった映画が展開されることとなろう、などと思ってしまいます。

 叙情的な音楽をバックにマストロヤンニとソフィア・ローレンの別離で映画は終わりますが、夫がひとり身でソフィア・ローレンに会いに行ったことを知っている妻はもはや以前のように夫に接することができず、映画のエンド後にはもう一つの悲劇が待ち受けていると予想します。
それは二人の子供をも覆う影となり子々孫々に禍根を残すのか、あるいはまったく別の展開がありうるのか。

 小学館刊のマストロヤンニ自伝も興味深いものでした。とりわけ俳優という職業への誇りやナポリやパリへの愛着が伝わってきました。
小林さんのような文化的に洗練された社長を持つ伊勢新聞社社員は幸せですね。一般社員が日常生活でなかなか経験できない海外の文化人との交流などのお話をきくだけでも、この仕事に関わる意義を改めて再発見することができるのでは、と思います。

 私は文化の裾野を広げる一助となるべく、著作権法関連のビジネスに従事し、書籍以外の収益源を模索する今日このごろです。

 また、素敵な文章をお書きになったら拝読させてください。このたびは誠にありがとうございました。

 F・M (都内出版社勤務)

青木 耕治 氏からのメール

 娘が伊勢新聞の東京支社の面接を受けたというので、どんな会社だろう?と、イ ンターネットで伊勢新聞を検索させてもらいました。
そうすると、小林社長の言葉が閲覧でき、相当長文でしたが拝見しました。
読みすすむうち、「そうそうそうなんです」「あの映画はそうだった」と共鳴することが多かったので、メールを送らせてもらいました。まだパソコンに不慣れなので、変な送り方だったら、申し訳ありません。
「草原の輝き」は、小生も高校時代に心躍らせた映画でした。3,4回は見たでしょうか。劇中のワーズワースの詩、は「Though Nothing Can Bring The Hour……」は、今でもそらで最後まで詠めます。
小林さんが書かれているように、青春とは、家族とは、社会とはを考えさせる内容で、大変印象的でした。
主役のウオーレン・ベイティやナタリー・ウッドの映画はその後も何本も見ましたが、この映画に一番打たれました。小林さんが40年近く前のこの映画(最近再放送しているが)を、いま丁寧に取り上げたのは、今の時代にも共通するテーマをもっているということでしょう。
仕事柄、これから忙しくなりますが、またホームページを読ませていただきます。

朝日新聞大阪本社選挙本部 青木 耕治

高橋 千秋 氏からのメール

  いつも社長の文章を読ませて頂いております。
知識の深さと、日本の現状に憂慮されている問題意識を拝見するにあたり、非常に勉強になります。自分の勉強不足を恥ずかしく思いますが、常に勉強だと思い、ホームページを拝見するのを楽しみにしております。

  特に西郷隆盛と日本人の文章を読ませていただき最後の「無私と決断の西郷的リーダーシップ」という部分について感慨深いものがあります。
わたしも前回選挙に出させていただく機会があり、御社にもずいぶん掲載していただきました。1経済人、1サラリーマンとして日本の流れを見ていて、諸外国の情勢と比較し、非常に憂慮しておりました。

  その中で選挙といういわば絶好の自己主張をするステージを与えて頂き、改めて日本の政治や経済をいうものを見つめなおすと、その「無私」と言う部分と「決断」という部分が不足いや、無くなってしまったのかということを考えると、日本の将来は本当に大丈夫なのかという不安とあせりを強く感じました。

  その後2年近くなりますが、この間の流れはその憂慮にさらに拍車を掛けているように思います。この「無私」という部分については、最近の傾向は無私ではなくすべてが「私」だけという、特に若い世代にその傾向が強く、なんとかならないものか。せめて自分だけでもという思いです。

  そして選挙に出るという「決断」も非常に重い大きな決断ではありますが、それ以上に当選をした後のさまざまな実務の中での決断の重要性ということを考えます。
今の政治・経済の流れは、中央、地方を問わず決断の先送りのその場しのぎというまさに「決断」ということを放棄したようなやり方を見るに付け、このままじゃ日本がだめになってしまうと思うのは私だけではないはずです。

  私自身は西郷隆盛までの大きな人間ではないため、西郷的なリーダーシップというものがどこまでやれるのか心配な点もありますが、今我々がその西郷的な生き方を改めて思い起こすときではないかと自分にも言い聞かせるつもりで、キーボードを打たせていただきました。

  ちなみに貴殿の論文の中に映画がかなり多く引用されており映画好きな私としても非常に興味深く読ませて頂きました。今後もさまざまな分野への提言を期待しております。

新政策議員フォーラム  事務局長  高橋 千秋

塚本 三郎 氏からのメール

 一月二十九日深夜、小泉首相はNGO(非政府組織)の出席をめぐって、田中真紀子外相、野上義二外務次官、鈴木宗男衆議院議院運営委員長の三氏を引責辞任せしめた。
外務省トップの答弁の食い違いによって、国会が混乱し、二〇〇二年度の予算審議を控え国会審議を優先し止むを得ないと判断した。

 ①喧嘩両成敗、田中外相 vs 野上次官と鈴木宗男氏の発言の食い違いで、三者を辞任せしめたが、実体は鈴木・野上の両氏が田中外相を道づれにした辞任劇と言われる。しかも、その裏では、小泉首相が進めんとする構造改革の抵抗勢力と呼ばれる、野中・青木の両自民党実力者が山崎拓幹事長、福田官房長官に強い圧力をかけた結果、小泉首相もこれに応えざるを得なかったとマスコミは報じている。

 ②国会での答弁が食い違っており、大切なアフガン支援の国際会議の開催国として、その真相解明が必要だという、野党及び国民の声にフタをして、三者を切り捨てたことは、小泉首相として極めて不適切な処置であった。従って、今後この問題は解明されたのではなく、フタをしたとして、ゴタゴタが尾を引くとみなければならない。

 ③外務次官が重大案件については、大臣に問題を説明し判断を仰ぐことは、当然すぎることである。それを行わなかったのみならず、途中で所管大臣が次官の処置を改めさせるべく指示しても、仕方なく応じた点は、外務省内が伏魔殿と言われても仕方がない。その大きな原因の一つに、鈴木宗男氏がかかわっていることである。この件については、NGO代表の大西健丞(ピースウィンズ・ジャパン代表)が、鈴木宗男氏から圧力をうけたことを明らかにしている。外務省の事務次官や担当局長が、大臣よりも事案に直接関係のない鈴木宗男代議士の圧力に従うことの異常さに国民は驚いている。

 ④この事態を解明し、黒白つける必要を小泉首相が知らないはずはない。それにもかかわらず、苦渋の決断として、国会の正常化という“逃げの言訳”で三者を辞任せしめたことは、是非が判っていながらそれと妥協し、抵抗勢力のゴリ押しを受け容れたことは、構造改革も又、こんな図式で言葉は強く断行と言いながら、実体は余りにも腰の弱さを見せつけたと心配するのは当然である。

 ⑤鈴木宗男氏が外務省官僚に意見を主張することは決して、「悪いことではない」。国民の代表として、ともすれば独断に陥りがちの役人に対し、国民の立場から、政府の行動に種々と意見を述べることは、国会議員の権力であるばかりか、義務であると私は信じている。しかし間違えられては困ることは、単なる私見や、私利私欲が中心で、国家の大木を歪めることは許されない。それでも国会議員が横車を押す場合がない訳ではない。その場合こそ、官僚の長であり、政治家である大臣の判断を仰がなければいけない。今回の事案は、担当大臣の方針を拒否させ、官僚に圧力をかけた鈴木氏はやり過ぎと云うよりも、言語道断である。

 ⑥それらの事態を承知しながら党の最高責任者である山崎幹事長と、首相を補佐する最高責任者の福田官房長官が首相に三者同時辞任を迫ったと報道されたことは、党内の融和、即ち抵抗勢力との摩擦を避けんとした態度は卑怯であり、下劣な手段を進言したことになる。首相には、事態解明に対し国会に最高の責任を負わされていた時、それにフタをすることを迫った。又、もともと首相を支えるよりも悪意に解すれば国民からの支持率を下げることによって構造改革の手法をゆるめようと焦る、言わば眼前の敵(抵抗者)と妥協して、味方の手を縛らせたともとれる。

 ⑦今日の騒動は田中外相に一片の非もなく、野上次官と鈴木宗男氏には、同情の余地はない。党内には鈴木氏にシンパが多く、田中外相に同情同調者が如何に少なくとも、党内世論が間違っており、事の善悪のケジメを明確にすべきであった。若しそれが、党内の不平、不和によって改革の道を妨害することがあれば敢然と立ち向かうべきであった。もともと小泉首相は、党内支持を意図せず総裁選挙では、自民党を破壊すると宣言した男であり、国民もそれを期待して、彼に圧倒的な支持を与えた。守旧派と云われる議員も彼に挙党一致の総裁推挙を余儀なくされた経過がある。その時のことを小泉首相はよもや忘れはしまい。

 ⑧田中真紀子外相の、外務大臣としての資質と言動については国民と識者の間には、余りにも大きな乖離があり、外交に対する基本姿勢が間違っていた。例えば米国よりも中国重視、或いは外務省の改革に冷静さよりも私情に傾き、教科書問題では実物を読みもせず独断で発言と批判をし、等々で常に内外でゴタゴタ続きのトラブルメーカーでもあった。その度に首相は彼女を庇い続け本心は、うんざりしていた。それでも彼女を更迭することが、内閣の支持率に悪影響を与えると我慢して庇ったとみられる。それが今回は、国会の正常化という大義名分と抵抗勢力に抗し切れなかった、山崎幹事長、福田官房長官の圧力とも云い得る説得に迎合し、抵抗者に妥協して自らの立場を護らんとする保身、延命と計算したと疑われても仕方ない。外相を切るべき時に切ることをせず、護ってゆかねばならぬ時に切ったことは、単に国民に絶大な支持のある田中外相を外したそのことによる支持の低下以上の失策と言わねばならない。

 ⑨小泉首相はこの国会でいよいよ構造改革断行の正念場を迎えることになる。この時大切な党内、特に抵抗勢力の支持をこれによって、とりつけられ、一挙に改革が進むとでも思っているのであろうか。私は前便でお伝えした如く、改革の時間は日本にはもう多く残されていない。三者同時更迭によって、抵抗勢力を百八十度協力者たらしめんとすれば、手法は間違っていたとしても、戦略としては許されるかもしれない。しかし、どう検討してみても、相手は百戦錬磨の業師であり、平然と前言をひるがえす常習者である。例えば前々回の衆議院総選挙で、公明党と組んだ他の野党を批判して公明党を政権に迎えれば「国の政治は腐る」と公言し続けたその人達が、数が不足すれば国の為にと頭を下げて政権入りをお願いして恥じない人達であった。自分達さえ政権と言う“おいしい権力”にありつければ、国が腐ってもよいのか?と云いたい。その様な人達に、構造改革に協力願えると勘違いでもしているのだろうか。

 ⑩昨年四月総裁選当時、首相は「景気回復が遅れてきたのは改革を恐れて既得権益にしがみついてきた勢力にひるんできたためだ、旧来の既得権益にしがみつく自民党をぶち壊したい」と訴えておられた。この原点は、カラ元気に終わるのか?

塚本 三郎