「中国の大盗賊・完全版」高島俊男 講談社現代新書

 多忙を極めている故、楽しみのための読書は意識して控えていました。たまたま書店でこの書に出くわしたから堪りません(たまりません)。

 中国文学者である高島氏は碩学とお呼びするのにふさわしい方で、畏敬しています。
長年の研究生活と浩瀚(こうかん)な読書量を背景に、歯に衣着せぬ論理で完膚なきまでに似非学者(えせがくしゃ)を叩きのめす、氏の文章の小気味よさ歯切れのよさは、週刊文春に連載中で、読書人のフアンも多いことはご承知の通りです。

 さて氏の指摘する「中国の大盗賊」とは以下の方々です。

第一章 陳勝・劉邦
第二章 朱元章
第三章 李自成
第四章 洪秀全
第五章 毛沢東

 この本は1989年に元版が出ています。特筆すべきは第五章が大幅に削られていたということです。著者の文を借りれば、

 元版が出た当時はまだまだ、社会主義の未来を信じ、したがってその先進国たる「社会主義中国」を支持する人も多かった

 中国を否定的に見ることに対する反発感情も強かった。

 出版社としては、この本の中国共産党部分はなるべくトーンを下げ、比重も小さくしたかったのであろう。

 ということです。

 この書でも第五章が現代史でもあり、非常に面白いです。

 堺屋太一氏も著作で述べられていますが、毛沢東のやったことはマルクス主義でも何でもありません。
明の太祖のやり口を真似た、農民を味方につけたら政権をとれる方法をなぞったものです。  ソビエト共産党が批判したのも、むべなるかなです。社会主義革命でなく、梁山泊的三国志的革命なのですから。

 もっともマルクス自体も近年の研究書で明らかなように(共同通信社刊「インテレクチュアルズ」1979年)、学者でもなんでもなく(彼は学術調査などしたことが無かった、都合の良い統計調査を抜書き、つぎはぎしていただけです。とっくの昔に解決されている問題なども現に横行してるがごとく記載して。)、

一ジャーナリスト・アジテーターであったわけです。アジテーターとしては大物中の大物でありました。彼のおかげで民衆が幸せになったかと言うと、答えは出てしまっています。

「どんなに暗愚な政治家・王・皇帝であったとしても、スターリンや毛沢東のとった政策が人民に味あわせた苦しみに匹敵する恐怖社会を創出することはなかっただろう」と。

 自身はブルジョア的生活をしていたのですから。女中と私生児をこさえて。親友エンゲルスにほうりつけて。

 高島氏によればこれら大盗賊に欠かせないものが、人民を承服させるための各種宗教であったということです。

 「紅巾賊」の弥勒教・白蓮教、「黄巾賊」の太平道(道教の一派)、「太平天国」のキリスト教、「共産党」のマルクス教もこれに類するものと言って良いと述べておられます。

 少し高島氏の一文を引いて今夜は寝ることにします。皆様のご意見を頂戴できれば幸いです。(信者様からの異論も多々あると思います。)

 かつては上記のことを言うと、殴りかかられたものです。狂信者は怖い。講談社も削るはずです。

 「太平天国の十数年の戦争というのは、これをせんじつめて言えば、新興宗教の教祖が作った共産主義的国家と、それに対抗するために大学者官僚が独力で作った一大軍閥との戦いである。」

 「彼らは何を争ったのか。もちろん権力である。野心家洪秀全は、国土を潜窃(せんせつ)、国権を傾覆して新王朝を打ちたてようとし、満洲皇帝の「奴才」(もしくは「忠臣」)たる曽国藩は、既存王朝の権益を守って死力を尽くした。

 洪秀全を偉大な農民革命家などというのはもとより滑稽きわまるが、曽国藩を聖人みたいに祭り上げるのもばかげている。

 「人民を塗炭の苦しみより救う」といったたぐいの文句は双方の文書や宣伝にチラホラ見えるが、そんなものは史上あまたの権力者や盗賊が用いならわしてきた空疎な口頭禅に過ぎない。
どちらが人民の味方などという話では、はなっからないのである。」

 なお、「中国政治論集」 宮崎市定 中公文庫 の

四A 金陵克復摺  (清) 曽国藩
四B 李忠王自伝  (太平天国)李秀成

 をあわせ読むと興味深いと思われます。秋の夜長に。

 一銭の得にもなりませんが、所詮読書人は独り楽しむ光景が適所なのでしょう。