①1600万頭 ② 93%vs7%
「①の数字は、100年前にT型フォードが出現する前の、馬車が交通機関だった時の米国における馬の数です。その後、自動車の時代が100年続いたが、2006年、米国の自動車は生産台数1600万台で、ピーク・アウトした。
『1600万』という数字の符合に驚いている。車から変わる次は何か。」トヨタのお蔵には、少なくとも10の新製品が入っている。
世界のトヨタでも主力商品を変えると考えてよい。以上 豊田章男次期社長(当時) および以下も日経新聞編集局長 小孫 茂 によります。(某講演会にて)
これまでと同じやり方をやっても景気回復は来ない。歴史は完全に変わった。
日経新聞は「派遣切り」という言葉は絶対に使わない、と言っています。気の毒ではあるが、世界的にみるとそんなレベルの話ではないからでしょう。
一方ではこれからものすごい発明が生まれるでしょう。
大恐慌の時はT型フォードが生まれ、20世紀の成長をリードしました。ラジオ、テレビも大恐慌の時に生まれています。
赤字はもうニュースではありません。新聞は異常なこと、普通と違った事を書くのが仕事です。黒字の企業を報道してください。
2月2日、イオンの相談役岡田卓也氏が三重大学から名誉博士号を授与されました。学位授与式とそれに続く講演に参加してきました。
内容は鼻谷記者の記事のごときものです。
59歳になる私の生き証人としての岡田屋―オカダヤージャスコーイオンのことを少し書いてみます。
イオンは創業250年と称していますが、戦後昭和21年(1946年)に再開したときは、従業員4名の呉服店でした。
岡田卓也氏は、11歳のとき既に両親は他界されていて、姉の小嶋千鶴子氏に育てられ、軍隊から復員されて早稲田大学に入学されました。
昭和21年に店舗を再開したときは、大学生社長でした。
日本国民がみな食うや食わずのとき、焼け残った早稲田大学の校舎で勉強した学生社長は、恐るべきチラシを四日市に撒きました。
「焦土に開く」という再開店の案内です。
戦時中は統制経済で配給制でしたから、商店がチラシをまくことなどありえませんでした。チラシを手にしたお客様が岡田屋に来て、自由に衣料品が買えることに半信半疑であったようです。
「戦争は終わったんだと実感して泣いた」そうです。
チラシとしては失格だと本人も語っています。商店主の思い入れが先に立ってしまい、お客様本位ではないからです。
「焦土に立つ」(復興せざるべからず!)というのが焼け跡に復員した若者たちの共通した思いでありました。今も、焦土(あるいはなりつつある)であることにご留意ください。
私が小学生の頃、岡田屋は国鉄四日市駅近くの蔵町から、当時最も栄えていた諏訪新道に移転してきました。
「金がなかったから蔵町の店を売り、それでも足りないから借金して40坪の店を構えました」 昨今流行りのコンビニエンス・ストアが30坪の面積ですからどの程度の店かご想像ください。中二階のある店で、時々遊びに行き店内をぶらついた記憶があります。
この店は近隣の商店街では異質の店でした。
当時、諏訪新道に並行して呉服町通りという商店街がありました。
呉服、紳士洋服・婦人服・洋品店・洋裁店・服地店・ボタン店・毛糸店等々が数十間軒を連ねていました。呉服町通りに来ればすべての衣料関係の品が揃うと言われていました。
呉服町の商店会の方々から、岡田屋というのは面妖な店だと不思議がられていました。あるいは馬鹿にされていました。一般の人はあまり岡田屋で買い物しない。店にも入らない。
大売出しのチラシを撒いて、近隣の農家の人(?)が開店前の岡田屋に行列して、あるいは座り込んでいるのを、小学校登校途中に見た記憶があります。みすぼらしい服装の集団が固まって行列しているのは恐ろしい光景でした。
「安物を仕入れてきて、商品知識のない近隣農家の人に売っている」というような評価でした。
岡田屋商法の戦略・戦術が四日市の商店主には理解できなかったのです。何しろ、店のシャッターにSSDDSと、大きく書いているのですから。
当時中学校に通いだしていた私は、この店の親父は馬鹿か、傑物のどちらかだが、たぶん馬鹿だろうと思っていました。
父の購読していた月刊雑誌「商業界」を、活字好きの私は店先で読んで知っていました、Self・Service・Discount・Department・Shopの略であることを。
こんな田舎の、農家相手の店がS・S・D・D・Sとコロンまでつけて書いて、誰が理解できるのかと疑ったのです。
(私の母は大阪市の阿倍野区の町っ子で、夏休み・冬休みのつど実家に里帰りし、長期滞在して阪神百貨店・大丸百貨店・阪急百貨店巡りをしていましたから、大口、平にご甘受くださいね)
志は40坪の店主の時から高く、大衆商法が時代に合い、堅実な商業一筋が花咲かせたといえるでしょう。指導者としての、渥美俊一の名は特筆すべきです。次にお会いしたら、岡田屋にとって渥美俊一はどんな存在かおたずねしてみます。
※冒頭の「②93%vs7%」については、次号にて説明いたします。