偉人、城雄士先生

今回は、三重県サッカーの父と称して間違いない偉人、三重県立四日市中央工業高等学校(四中工)初代サッカー部監督で私の恩師である城先生について書きたい。

城雄士(じょう ゆうじ)。1940年8月25日生まれの76歳。三重県伊賀市出身。上野高校を卒業後、三重大学へ進学し4年生時にはサッカー部主将を務める。初代四中工校長の小谷正美氏からの誘いを受け、1963年に創立2年目となる四中工にサッカー部を創部し初代監督となる。

先日、城先生から54年前の創部時のエピソードを聞かせていただいた。21名のサッカー未経験者で挑んだ初めての練習試合のことである。前半を終え、ハーフタイム後に後半に挑むためにグラウンドへ出て行った選手たちは、前半と同じ場所に陣形を整えていた。前後半で陣地が代わるルールすら知らなかったそうだ。また、自分たちでグラウンドを少しずつ整備しつつ広げ、木製のゴールを生徒たちと一緒に手作りしたそうだ。そんな状態から四中工サッカー部はスタートした。

創部10年目にあたる1972年に初めて全国高校サッカー選手権大会に出場し、創部から勇退するまでの32年間で、全国高校総合体育大会に18回出場し、そのうち2回の優勝を果たされた。全国高校サッカー選手権大会では10年連続を含め18回出場し、優勝1回、準優勝2回、3位3回などの記録を残した。四中工サッカー部監督として指導した選手の数は700人近くにのぼる。その中から日本のトップリーグで活躍する選手が約30名、教員兼サッカー指導者約30名を三重県内外に輩出した実績も持つ。特にプロ・アマ問わず、城先生に指導を受けた人間のうち指導者やクラブ運営に携わる者などをはじめ、サッカーに関わる分野で活躍する人間の数は100名を越える。

このことからも分かるように、三重県内は勿論、三重県から日本全国へサッカーを通じて多大なる貢献をされてきた偉大な方である。教員や指導者となってサッカーに長く携わる人間の多さは、他高校と比較しても四中工サッカー部が突出しているのではないかと私は思う。

では、われわれ教え子は城先生から何を学び、何を継承し長くサッカーに携わることとなっているのか?この漠然とした問題を明確にするべく、今回のコラムを執筆するにあたって城先生に直接インタビューをさせていただいた。その際に頂いた言葉も含めて、この機会に城先生から教わったことを5つに集約したい。

①勝利を目指す(目標を実現する)こと、②継続(努力・忍耐・工夫)するこ
と、③本気(人生をかけて)で取り組むこと、④「サッカーを大好きにさせること、⑤愉しむこと。

①~③はすべての人に活かせる人生の基本である。④と⑤は、いかに自分の人生を自分らしく愉しんで豊かに過ごすのかに繋がることだ。好きこそ物の上手なれというが、好きだから上達し、上達するから継続し、その中で愉しく工夫しようとする。その経験から自律心が養われ、自分らしい人生を歩む。サッカーに本気で愉しんで取り組み大好きにさせてもらった人間の数が、高校卒業後もサッカーに長く携わる人間の多さとして表れているのだろう。

最後に、城先生からわれわれ指導者にメッセージを頂戴した。「指導者の型にはめないでサッカーを本気で、本当に好きな子供たちを育てて欲しい。サッカーを長く続ける人間を育てて欲しい。」実行することは簡単ではないが強く心に留め、指導者を続ける間私なりに実践していこうと思う。

中田一三
中田一三

なかたいちぞう 1973年4月生まれ。伊賀市出身。四日市中央工業高時代に、全国高校サッカー選手権大会に3年連続出場。92年1月の大会では同校初優勝をもたらし、優秀選手に選ばれた。中西永輔、小倉隆史両氏と並び「四中工の三羽烏」と称された。プロサッカー選手として通算194試合に出場。現在三重県国体成年男子サッカー監督。