三重県にプロサッカーチームができる意義①

 20年前、Jリーグ・アビスパ福岡在籍時代に私が取組んだことがある。選手である私がホーム戦のチケットを準備し、博多のスタジアムに地元の子供たち20名を招待するというイベントである。そのイベントに取組んだきっかけは当時の球団社長に進められてのことだった。今考えると失礼な話だが、企画自体や博多の子供達への思い入れが半端で『ただやっただけ』になってしまったように振り返る。

 対して、鮮明に記憶に残っている子供達の笑顔がある。それは、私もかつて所属していた地元・伊賀市のサッカー少年団の子供達が、私を応援するために試合観戦に来てくれた時のことである。試合後に、私の姿を見付けた子供達が目を輝かせて興奮する様子が目に飛び込んできた。警備員の静止も振り切る勢いで、ちょっとしたパニック状態である。パニック状態に陥った理由は私の存在だけではない。横を通りかかった若手オリンピック選手や日本代表選手の姿を見つけたからである。普段は感情をあまり表に出さない後輩達の変貌振りに驚いたことを覚えている。テレビでしか見たことがない憧れの選手たちの、子供達への影響力を痛烈に感じた瞬間だった。

 そんな有名選手たちとは一風違った私であっても、後輩たちに与える影響力は小さくなかったと今になって気付かされる。ある子供の父親は「親の言葉よりサッカー選手やコーチの言葉の方が子供達は聞き入れる」と言った。私がJリーガーとしてプレーする姿を見て、「夢中になって打ち込むことを知らなかった子供達が、サッカーに打ち込むようになった」と私の小学生時代の恩師が最近教えてくれた。

 現在、三重県にJリーグ参入を目指す意志を表明しているチームが3チーム存在する。昨年、JFL(ジャパンフットボールリーグ)に昇格を果たしたヴィアティン三重、三重県で最初にJリーグを目指して活動している鈴鹿アンリミテッドFC、三重県南勢地域を活動拠点とするFC ISE-SHIMA。地元で触れ合う子供達にとって各チームの選手は身近な存在で、影響力は大きく、それに伴う責任も小さくない。そして、その影響力と責任の大きさは勝ちを重ねる毎に、リーグが上がる毎に大きくなる。一つの得点や一つの勝利を得るために走り続ける選手の姿に、子供達の未来を左右する言葉以上の説得力が存在するのである。

中田一三
中田一三

なかたいちぞう 1973年4月生まれ。伊賀市出身。四日市中央工業高時代に、全国高校サッカー選手権大会に3年連続出場。92年1月の大会では同校初優勝をもたらし、優秀選手に選ばれた。中西永輔、小倉隆史両氏と並び「四中工の三羽烏」と称された。プロサッカー選手として通算194試合に出場。現在三重県国体成年男子サッカー監督。