戦後75年 揚子江の機雷回収 中国での捕虜体験、湯浅さん明かす

【中国の揚子江での体験を語る湯浅國一さん=尾鷲市天満浦の自宅で】

75年前のきょう15日、日本は終戦を迎えた。月日の経過と共に戦争の記憶が薄れつつある中、戦時中に軍属(軍隊での非軍人)として活動した尾鷲市天満浦の湯浅國一(くにいち)さん(91)に、当時の体験や今伝えたい思いを聞いた。

太平洋戦争中の昭和19年、湯浅さんは16歳で海軍の軍属に志願して中国へ渡り、日本船が安全に運航できるように、揚子江(長江)の警備にあたった。終戦後も捕虜として中国に残り、米軍の爆撃機が揚子江に落とした機雷を回収した。國一さんは「戦争で苦しむのは一般の人だ。戦争は絶対に繰り返してはいけない」と願う。

尾鷲市出身。3歳の時に父親が亡くなり、長兄も早くに病死した。きょうだいが多く家族を養うため、次男の國一さんは給料が支給される海軍の軍属として中国へ。

中国では、徴用船の「福寿丸」の乗組員として、南京や上海に向かう日本兵や食料などの物資を載せた日本の軍用船が、揚子江を安全に運航できるように警備していた。船には國一さんのほか兵隊を含む7人ほどが乗船し、揚子江を渡る中国の船舶を呼び止め、銃など武器となる物資を回収。夜も交代で見張った。

当時、砂糖は火薬とみなされ、発見すると没収するよう命令されていた。國一さんは、中国人女性が「子どもに食べさせる」と言うと、見逃していたという。「乗組員には兵隊もいて、砂糖を見つけると容赦なしに回収していた。本当はだめだが、かわいそうで没収できなかった」と話す。

國一さんらは半年に一度、船を洗浄するために船の修理施設「ドック」を訪れていた。終戦前のある日、米軍の潜水艦に攻撃されたとみられる日本の軍用船が、ドックへ入って来た。船には大きな穴が空いていて、そこから10代くらいの何百人もの若者の死体が折り重なっているのが見えた。手足は泥だらけだった。「南方へ向かう海軍飛行予科練習生だったと思う。安らかに眠ってくださいと手を合わせることしかできなかった」。

揚子江の警備にあたる中、國一さんは召集令状で海軍陸戦隊へ入隊したが、3日目に終戦となった。「戦争がひと月でも長かったら兵隊として戦地へ行き、恐らく戦死していた。私は運がよかった」と語った。

終戦後、すぐには帰国できず、捕虜となり揚子江に沈んでいる機雷の回収をした。2隻の船に取り付けたワイヤを機雷とその重りをつなぐひもに引っかけて船の速度を上げてひもを切る。すると機雷が浮いてきて、機関銃で撃ち爆発させた。機雷に当たって沈没したり破損したりする船もあったため、命懸けだった。

終戦から半年後の昭和21年2月、日本に帰国できることになったが、日本が敗戦したため、うれしい気持ちにはなれなかったという。長崎県佐世保市から超満員の汽車で故郷の尾鷲市に帰る途中の広島駅で、婦人会がお茶を出してくれたことは忘れられない。「原爆を落とされて私らより大変な思いをしているのに、お帰りといたわってくれてうれしかった」と振り返る。

帰国後は尾鷲市から遠洋漁船に乗り、インド洋などでカツオやマグロを捕った。30歳で妻和子さん=現在(86)と結婚。56歳で遠洋漁船を下りたが、80歳まで尾鷲湾で定置網漁をした。今は和子さんと暮らしながら、友人の定置網漁の手伝いに行っている。

これまで中国での経験を家族にもほとんど語ることはなかった。「(終戦後の昭和21年2月に)中国から尾鷲に帰り、戦時中に当時3歳の妹が防空壕(ごう)で亡くなったと聞いた。戦争が無かったら妹は生きていたかもしれない。私らも戦争の犠牲者だ」と言う。「私ら以上に大変な目に遭った人もたくさんいる。国のために戦った人たちのおかげで今の日本がある。戦争を知らない世代にも知ってもらいたい」。