「戦争、絶対に反対」 きょう終戦73年 体験伝える尾鷲の2人

【尾鷲】8月15日の終戦から今年で73年。戦争を体験した人が減る中、山西敏德さん(85)=尾鷲市中井町=と、山本政枝さん(94)=同市林町=は同市の小学校などで自身の戦時中の体験を伝えてきた。自身の体験を通し、「戦争は絶対にしてはいけない」と2人は強く語る。

<防空壕避難、今でも夢に 今西さん 空襲、機関砲の恐怖>

尾鷲市では、終戦の年の7月28日に米軍の艦載機と潜水母艦「駒橋」を指揮艦とする旧海軍「熊野灘部隊」が尾鷲湾で交戦し、隊員147人が亡くなった。
山西さんは当時尾鷲国民小学校高等科1年生だった。「朝の5時ごろからバーンバーンという音が聞こえてきた」。その日は休校となり一日中防空壕に避難していた。「アメリカの艦載機が山を旋回して低空飛行してきた。機関砲のバリバリというどえらい音がしていた」と当時の恐怖感を語る。

負傷者は200人以上に上り、尾鷲小の裏に掘った防空壕(ごう)で高等学校の女生徒が手当に当たっていた。「小学校の教室には空襲で亡くなった人のために線香が供えられていた」と静かに語った。

山西さんは昭和8年、8人きょうだいの末っ子として同市で育った。当時は食糧難で、小学校のグラウンドに麦を植えた。防空壕を掘る作業もした。「放課後に防空壕を掘った時に出た土を、百メートル離れたごみ捨て場まで1人25回運ばないといけなかった」と述べ、「土を運ぶのは重かった」と振り返る。

防空壕で過ごした風景は今でも夢に出てくるという。それほど辛い体験だったが、当時の状況を伝えたいと、市内の小学校を回り自身の体験を通し平和の尊さを伝えている。

山西さんは「戦争は二度としてはいけない。体が元気な限りは、これからも体験を語り続けていきたい」と力を込める。

【戦時中の体験を語る山西さん=尾鷲市中井町で】

<戦時の生活苦、振り返る 山本さん 塩作り、物々交換>

山本さんは大正13年、同市林町で8人きょうだいの3番目として生まれた。尾鷲国民学校卒業後、津市の倉敷紡績や海洋ゴムに勤めた後、22歳で結婚。結婚後は30年以上、個人商店やお好み焼き屋を経営し、「生活のために働きぬいた」と振り返る。

戦時中はコメや砂糖などは配給制だった。食料を得るため、山本さんは友人と共に海岸で海水をくんで何十時間もかけて塩にした。それを物々交換するため、朝5時の汽車に乗り込み一身田町(現・津市)や松阪に毎日通う生活が3年ほど続いた。

運んでいた塩や交換したイモは重く、「今思い出すとぞっとする。二度とああいった生活はしたくない」と顔をこわばらせる。

日常生活の中で、衛生状況も劣悪だった。着物やせっけんもなく、服の縫い目にはシラミがいっぱいわいた。シラミは石で潰し、「とてもかゆかったのを覚えている」。

米軍の爆撃機B29が上空を飛び空襲警報が鳴ると家中の電気を消して防空壕に走って逃げた。米軍の艦載機が低空で飛んできた時は「恐ろしくて生きた心地がしなかった。死ぬのはいつかいな」と思った。

あれから73年。現在は孫とひ孫の成長を楽しみにする日々だ。だが、「戦争は絶対反対。二度としてはいけない。生きている限り、反対し続ける」。その思いがあせることはない。

【戦時中の様子を語る山本さん=尾鷲市林町で】