共通する形「神山」 神社から山を望むと 松阪・二つの阿射加神社

【松阪市大阿坂町の阿射加神社(手前の森)と阿坂山 】

松阪市の阿坂山(312メートル)の東麓に広がる大阿坂町、小阿坂町にはそれぞれ同名の阿射加(あざか)神社がある。山頂と神社を結ぶ線上から山を眺めると、それぞれ、真ん中の三角すいの左右後ろに山並が左右対称に控える「神山」の形になることが分かった。神のこもる神山と、神を迎え降ろす神社が自然の中に組み込まれている。4日は「みどりの日」。自然に親しみ、地元の神社の神山を探してみたい。(松阪紀勢総局長・奥山隆也)

神山は中央に三角すいの山があり、後ろ左右に山が並ぶか、手前で左右の山が交差し、全体のバランスを取る。大分県の古代史研究家、井上香都羅氏が全国の銅鐸(どうたく)出土地や縄文・旧石器遺跡約1000カ所を調査する中で一般的な形を明らかにした。

井上氏は平成九年に刊行した「銅鐸『祖霊祭器説』」(彩流社)で「古い神社にも、それぞれ神体山のあることが分かってきました」「神社が古代の神山を拝する祭祀の場に建てられている」と指摘しつつ、「現在は、自分の祀る神社に神体山のあることが分からなくなっている神社が多いようです。神社の周りが林になって、神山が神社から見えなくなっているケースもあります。これは、長い時代の間に祭祀の形式が変わり、古代祭祀の原形が分からなくなったためでしょう」と書いている。

同書では県内の古社と神山も取り上げ、伊勢一宮の椿大神社(鈴鹿市山本町)と入道ヶ岳、伊賀一宮の敢国神社(伊賀市一之宮)と南宮山、志摩一宮の伊雑宮(志摩市磯部町恵利原)と和合山を挙げている。

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阿射加神社は927年に完成した律令の施行細則「延喜式」にある神社の格付け一覧表に大社として載る。伊勢国253座のうち大社は18座で、伊勢神宮関係を除くと阿射加神社3座と多度大社(桑名市)一座だけ。格式高いが、記者が訪れた時、大きな神域に誰もいなかった。共に立派な森になっていて山並は神社から離れないと見えない。山頂と神社を結ぶ線上から望むと、尾根筋が浮かび上がって神山の形になっている。

阿坂山は北畠氏が山城を造り、山頂の土塁の形から「枡形山」と呼ばれ、籠城戦時に米で馬を洗って水がいっぱいあるように見せかけた伝説にちなむ「白米城」の名前もある。山麓には伊勢自動車道が尾根を切り開いて横切っている。どちらも大土木工事だが、神山の眺めは維持されている。

頂上と大阿坂町の阿射加神社を結んだ直線上には天王神社(同市嬉野黒野町)と米ノ庄神社(同市市場庄町)が並び、山頂と小阿坂町の阿射加神社の延長線上には敏太(みぬだ)神社(同市美濃田町)がある。遠くなるが同じ山の眺めを共有し、特別な景観として意識されていたようだ。

阿坂山の周りに神社が点在し、中でも北側の豊地神社(同市嬉野下之庄町)から見る阿坂山は神山の形が分かりやすい。

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「古事記」は猿田彦神が阿耶訶(あざか)で漁をしていたら、ひらぶ貝に手を挟まれ、海に沈んで溺れたと語り、①海底に着いた時②海水が泡立つ時③泡が海面で裂ける時のそれぞれの名前として、①底度久御魂(そこどくみたま)②都夫多都御魂(つぶたつみたま)③阿和佐久御魂(あわさくみたま)を挙げる。阿射加神社の3座は猿田彦神が化身した3つの魂を指し、海との関係が浮かぶ。

日本神話学研究の第一人者、松前健氏によると、「インドネシアのボルネオやサンギルなどに、猿が、ひるねをして口を開けている蛤(はまぐり)に、手を入れて食おうとし、手を挟まれ、引き抜こうとすると、ちぎれた、という昔話がある」(「日本神話の謎」大和書房、昭和60年)そうだ。

北海道の旭川市博物館長で考古学者・アイヌ研究者の瀬川拓郞氏は昨年刊行した「縄文の思想」(講談社現代新書)で縄文時代の面影をとどめるアイヌや古代海民は共通して「海蝕洞窟を他界の入口とみなし、高山の山頂を死霊のいきつく先と認識していた」と紹介し、稲作が伝わった弥生時代以降について、「山の神をめぐる農耕民の世界観は、『海』と『山』という縄文の二元的な世界観が、農耕地である『平地』と『山』という二元的な世界観に変形されたもの」とみている。

阿射加神社と神山、祭神の猿田彦神の関係を山上他界観の変遷とつなげて考えると興味深い。