伊勢神宮や斎宮の立地 冬至日の出方位と関連か

【復元建物「さいくう平安の杜」(手前)と朝熊ヶ岳山頂部から昇る冬至の日の出=昨年12月22日午前7時8分、明和町斎宮で】

【松阪・伊勢】冬至に明和町斎宮の斎宮跡に建つ復元建物「さいくう平安の杜」から日の出を望むと、伊勢市の朝熊ヶ岳(標高555メートル)山頂部から昇る。また松阪市宝塚町の宝塚古墳(5世紀)から見る冬至の日の出方位は伊勢神宮内宮正殿に当たる。冬至は短くなった日照時間が翌日から再び長くなる一年の節目。神宮や斎宮の立地と冬至の日の出方位の関連を考える研究が出ている。

いずれの位置関係も岐阜県関市の元高校教員、尾関章氏(71)が昨年5月、論文「歴史のなかの伊勢神宮」(「いにしえの風」第13号)で発表した。

遺跡からの眺めは木立や建物で見えない場合が多いが、パソコンの景観シミュレーションソフトを使うと太陽が演出する風景を容易に検証できる。サイト「日の出・日の入りマップ」は指示した場所の日の出・日の入り方位を地図上に直線で示す。情報処理技術が進展し、研究環境は様変わりしている。

■  ■

斎王は天皇に代わって伊勢神宮の天照大神に仕える未婚の皇族女性。飛鳥時代の初期斎宮跡からは柵とみられる柱の列が見つかり、北から東に約三三度の傾きで配置され、周囲に同じ傾きで建つ堀立柱建物が出てきた。建物群の並ぶ先に朝熊ヶ岳がそびえ、冬至の日の出方位(真東から約三〇度南へ寄った線)にほぼ沿っている。

太陽が真東から昇る春・秋分、宝塚古墳から見ると鳥羽市の離島・神島から朝日が昇る。尾関氏は同古墳が現在地にできた理由について「神島からの彼岸の日の出が見えるこの丘が選ばれ、この古墳が造営された」と考える。有名な船形埴輪(はにわ)のへさきは東向きで神島を向く。立地を決めるカギは神島と日の出だったのだろうか。

尾関氏は船形埴輪そばに二個だけ並ぶ柱状埴輪を結ぶと冬至の日の出方位と重なる事実も発見。墳頂から見下ろす柱列の向きをたどった先に内宮がある。その線上には同古墳に続く高地蔵古墳(松阪市岡本町、五世紀)、高塚古墳(明和町上村、同)の両大型墳が並ぶ。古代人が冬至の日の出ラインに沿って有力者の墓を造ったと推測でき、太陽信仰の深さを思わせる。

内宮宇治橋の鳥居内から出る冬至の太陽がよく知られているが、尾関氏は「内宮社殿背後の山の稜線に冬至の太陽が昇る風景を望む地点」として宇治橋そばの宇治神社を取り上げ、文久元(1861)年の絵地図「度會郡宇治郷之圖」が描く同神社奥の「四つの平坦部」に注意を促す。「冬至の日の出を意識した『場』であったとしても、宇治橋同様、古代にまでは遡行できないとも思われるが、地元での伝承の有無も含め、検証とご教示を乞う」と記す。

記者が平坦部の一つに行ってみると、空き地になっていて、石列で囲った平行する一辺約三メートルと約八メートルの大小二つの四角形があり、内宮正殿に向かって並んでいた。二つ並ぶ角度は冬至の日の出方向にほぼ重なる。内宮を望める場所に、冬至の日の出を意識して四角形を配置し、祭祀(さいし)をしていたのではないかと、想像は膨らむ。

■  ■

尾関氏は松阪市の阿坂山(312メートル)から望む冬至の日の出方位が伊勢神宮外宮裏山の高倉山山頂にある高倉山古墳(六世紀)に当たり、背後の山並みから太陽が昇る関係も突き止めた。同古墳は全長18.5メートルの全国屈指の横穴式石室を備える。

阿坂山について斎宮歴史博物館の穂積裕昌調査研究課主幹は著書「伊勢神宮の考古学」(平成25年)で注目し、「伊勢神宮成立以前の伊勢では、後にサルタヒコ、あるいは伊勢津彦という名で象徴されるようになる地域の神が奉じられ、信仰を集めていた。この中心は一志郡の南端に位置する阿坂山にあり、伊勢湾西岸でも古墳時代前期に前方後方墳が集中して築造された中村川流域の諸豪族はこのカミを奉じ、強固な地域圏を形成していた」とみている。

高倉山古墳の巨大横穴式石室を巡っては、東海大学の北條芳隆教授が昨年5月刊行した「古墳の方位と太陽」で、「石室開口部は西南西に向けられているので、冬至の日の入り時には石室の相当内部にまで陽光が差し込んだはずだと推定できる」と指摘。冬至の朝日を石室内部に取り込む工夫をした福岡市の古墳なども挙げ、「冬至の陽光に照準を定めた死と再生の物語が現実の古墳祭祀においても実演された可能性を強く示唆している」としている。

■  ■

南山大学の後藤明教授は昨年5月発刊の「天文の考古学」で世界の古代遺跡と天体の関係を紹介し、「冬至は太陽がもっとも『弱る』ときであるので、多くの民族で生命の再生や祖先の復活儀礼が行われた」と説く。元旦に初日の出を拝む風習にも古くからの日本人の考え方を感じさせる。