60過ぎて大学院へ 博士課程修了証書、亡き母に 「中村不動産」「ナカムラ生コンクリート」会長 中村光宏さん

「今後は四日市の発展とともに、国際貢献にも全力を注いでいきたい」と話す中村さん=四日市市中村町で

 昭和18年、父親の故順一さんが四日市市松寺町で建設業「中村組」を創業。中村組を母体に、昭和45年に運送業「中村重機運送」、同51年に宅地建物取引業「中村不動産」、同55年には生コンクリート製造販売の「ナカムラ生コンクリート」の3社を、兄利一郎さん(79)と共に設立し、事業の拡大を図ってきた。

 四日市市松寺町(旧大矢知村)で、3人きょうだいの次男として生まれた。幼少時は、自宅近くの朝明川で泳いだり、魚を捕まえたり、仲間と時間を忘れて遊んでいた。末っ子だったせいか、家ではいつも大好きな母の故せつさんの膝を独り占めしていた。村で1人だけ高等教育を受けた母の口癖は「光宏、学問は人に取られない財産だからね」だった。

 暁中時代は柔道に打ち込み、市中学柔道大会の出場選手に選ばれるほど腕を上げた。海星高校から柔道強豪校でもある愛知大法経学部に進学し、法学を専攻した。全国から集まった猛者との練習試合で自信が打ち砕かれ、柔道を諦めて空手に転向した。血のにじむような練習に耐え、卒業時は有段者になった。

 より深く学びたいと同大大学院に進んだが、教授との意見の対立から、1年で自主退学して家業を手伝うようになった。土木を修めた兄が中村組を継いだことから、学んだ法律知識を生かして不動産業を起業した。県内を中心に、不動産売買と仲介、宅地造成などを手掛け、太平洋セメントと協業して公共施設やビル建設などに携わる兄と連携しながら、それぞれの事業を軌道に乗せ、大きく成長させてきた。

 60歳を迎えたころ、長い間、頭を離れなかった母の言葉と向き合うことができるようになった。大学院を中退して家に戻った時、「辞めてほしくなかった」と残念そうにつぶやいた母の思いに応えたいと、名古屋経済大修士課程の社会人枠で入学試験を受けた。面接官を務めた早大名誉教授に「その歳で何かご事情が」と質問され、「母が元気なうちに修士課程修了証書を手渡して、身勝手を謝りたい」と、正直に話した。

 合格通知を受けて通学し始めても、「途中で挫折したらもっと気落ちさせる」と、母には伝えなかった。会社経営と大学を両立させながら、若者らと共に学ぶことが楽しく、これまでの人生で1番勉学に打ち込んだ2年だった。最高齢の総代として、学長から修士課程修了証書を授与された時、「かあちゃん、やったよ」の思いが一気にこみ上げた。

 修了証書を手に、母は「お前、学校に行っていたの」と驚き、喜びに言葉を詰まらせた。額に入れた証書を居間に飾っていつも眺めてくれていた母が、その2年後、93歳で亡くなった。その後も、「もっと学びたい」と、博士課程に通い、6年がかりで見事修了した。博士課程修了証書と発刊した学位論文「株式譲渡制限制度の研究」は、亡き母にささげた。

 「信頼して仕事を任せられる人材と、学問の喜びを教えて下さった素晴らしい師に恵まれたおかげで、長年の心のつかえが下り、親孝行ができたことに深く感謝しています」と話し、「土地開発で企業誘致を図り、四日市の発展につなげるとともに、ライオンズクラブ役員として国際貢献にも全力を注いでいきたい」と意欲を見せた。

  

略歴:昭和14年生まれ。同37年私立愛知大学法経学部卒業。同38年同大大学院中退。同年中村組入社。同51年中村不動産設立、社長就任。平成12年私立名古屋経済大学大学院法学研究科修士課程入学。同14年同課程修了。同年同大博士後期課程入学。同20年同課程修了。同23年ライオンズクラブ国際協会334―B地区ガバナー就任。