音楽に熱中した学生時代 家庭では子煩悩な父親の一面 製網会社「アミカン」社長 伊藤勘作さん

「長男に9代目を引き継ぎ、仕事から少し距離を置けるようになる日が待ち遠しい」と話す伊藤さん=四日市市富田浜元町のアミカンで

 四日市市富田浜元町の製網会社「アミカン」は、初代伊藤勘作氏が「網勘商店」として、江戸幕末期の寛政6(1794)年に創業した220年余り続く老舗企業。昭和41年、社長に就任、平成11年に8代目勘作を襲名した。現在は、製網部に加え、スイミングクラブなどのスポーツ事業部、工事部、受託派遣部と事業を拡大している。

 富田、富洲原地区は富田漁港があったことから、漁業に使う漁網の一大生産地として栄え、水産王国日本を支えてきた。創業時の麻糸でよった手すき網から、大正期には、6代目が開発した網勘式編網機で綿糸の漁網を量産できるようになり、昭和20年代からはナイロンやポリエステルなどの化学繊維網が主流になった。大正14年に「網勘製網」、平成12年に「アミカン」と社名変更した。

 四日市市富田で7代目勘作の長男として生まれ、2歳の時に母親を亡くした。その後、父親が再婚して弟と妹が生まれた。幼少時、夏場はいつも近くの富田浜で友達と泳ぎを競い、貸しヨットやボートで遊んで真っ黒に日焼けしていた。

 富田小、富田中から四日市高校に進み、吹奏楽部に入部した。小6の時に見たジャズオーケストラの映画に魅せられ、祖母に買ってもらって大事にしていたトランペットで、毎日練習に励んだ。進学した慶應義塾大学では、伝統あるビッグバンドサークル「慶應ライト・ミュージック・ソサイエティ」に入り、ジャズに夢中の4年間を過ごした。

 3年生の時、出場した「大学対抗バンド合戦」のフルバンドの部で準優勝、4年生で優勝することができた。当時のバンド仲間から「ルパン三世」の作曲家大野雄二氏や「翼をください」の村井邦彦氏ら、後に音楽業界で大活躍する仲間が多く出た。「学生時代の最高の思い出は、小6の時に憧れたトランペット奏者ハリー・ジェイムスが率いるバンドと競演することができたこと」と懐かしむ。

 昭和40年に卒業、網勘製網に入社した。1年間、網作りの基礎を学びながら工場で機械操作を研修し、翌年、会長職に退いた父を継いで社長に就任した。約60人の社員には、代々の社訓「誠実であれ」とともに、「良いものをより安く、より早く、より安全にをモットーに励もう」と話す。

 就任時は、世界各国への輸出も内需も好調だったが、漁業の衰退に合わせて、同45年ごろから事業の多角化を図ってきた。地元コンビナートの石油精製装置の建設、配管、保守などを担う工事部、県初の水泳教室「トップスイミング」、健康維持向上のための「フィットネスブルバード」のスポーツ部、仕事に応じた人材を派遣する受託派遣部を増設、業績を伸ばしている。

 家庭では、子煩悩な父親の一面も見せる。4人の子どもたちの授業参観や運動会には必ず参加し、夏休みには家族旅行に出掛ける。今は週1回、妻紀子さん(68)や友人らとゴルフを楽しむのが何よりのリフレッシュタイムになっている。「長男に9代目を引き継ぎ、仕事から少し距離を置けるようになる日が待ち遠しい。ゆっくりと旅行でもして、長い間、支えてくれた妻をねぎらいたい」と語った。

略歴:昭和18年生まれ。同40年慶應義塾大学法学部卒業。同年網勘製網入社。同41年網勘製網社長に就任。平成3年四日市商工会議所常議員就任。同年県製網協同組合理事長就任。同21年秋の藍綬褒章受章。同26年国際ロータリー2630地区四日市グループガバナー補佐就任。