映画「黄金」

  映画「黄金」は1948年に製作され、日本では翌49年に公開されています。出演はハンフリー・ボガート、ウォルター・ヒューストン、ティム・ホルトです。主要キャストに女性が一人も出てこない異色作でありました。映画は公開されるや大ヒットし、批評家の激賞を受けました。一九四八年のアカデミー賞で、監督賞(ジョン・ヒューストン)、脚本賞(同)、助演男優賞(ウォルター・ヒューストン)を受賞しました。
原作はB・トレィブンという「なぞの作家」による「シエラマドレの黄金」です(トレィブンのことは後段に記します)。

  この映画はトレィブンの、どうしようもなく暗い虚無的な、あるいはカフカ的な実存の不安とでもいえばいいでしょうか、原作を見事にジョン・ヒューストンが脚色しています。父親のウォルター・ヒューストンも助演男優賞を取っているので、父子でアカデミー賞を取るという珍事を達成しています。父のウォルターは、サイレント映画時代からの俳優で、歌も歌える生まれついての芸人でしたが、この映画のあと2年ほどで惜しくも亡くなっています。

  この映画が時代を超えて、再鑑賞に耐え得る古典としての地位を確保したのは一にも二にも脚本の良さでありましょうし、黄金にとりつかれた現代人であるわれわれにも全く間然するところが無い次第です。脚本の土台がしっかりしていなければ、いくら映像的に優れていても映画としては見ごたえがありません。昨今の映画の中には、ジェットコースター・ムービーと称するらしいですが、スリルとアクションの連続で観客を引っ張っていくだけのものがあります。見終わったあとは疲労感以外、何も残らないのはご承知の通りであります。「黄金」は脚本に書き込まれた人間像のリアルさに加えて、当時流行のセミドキュメンタリー調のシャープな映像が素晴らしい出来栄えに結実しています。

  物語は1920年のことです。シエラ・マドレの山脈を西北に望むメキシコのタムピコという港町の安宿で知り合った、メキシコに流れ込んだ食い詰め者の3人のアメリカ人・ドブス(ハンフリー・ボガート)、カーティン(ティム・ホルト)、老人のハワード(ウォルター・ヒューストン)が金鉱を探しに行きます。この3人の出会いが何とも言えぬほどうまいですし、そこで物語の行きつく先が暗示されてもいるのが脚本の妙なるところです。

  怪しげな、しかし篤実なところのある山師の老人はこう言います。「金鉱探しで一番肝心なことは掘り当てることではない。もし、金を見つけても限度を知って引き揚げないときりがない。黄金は人間を変える」と心得を話します。これに対してドブスは一笑に付します。「見つけた人間による。おれはさっさと引き揚げる」と。読者の皆さまは自信がおありでしょうか。物語の冒頭、食い詰めたドブスが町でアメリカ人を見つけ「同国人のよしみで少々融通してくれないか」とたかって、飯を食い、たばこを買い、床屋に行くシーンがあります。この時、3度も同じアメリカ人にたかり「おればかり狙うのはやめてくれよ」と言われ、「手とお金しか見ていなかったもので」と謝る場面があります。このたかられるアメリカ人を何とジョン・ヒューストンが演じています。ドブスとカーティンの2人はいんちきな労務者監督に引っかかり、賃金を持ち逃げされますが、運良くその男を見つけて殴り倒して賃金を取り戻します。

  さらに宝くじで200ペソ(100ドル)が当たり、老人の貯金を合わせて600ドルとなり、金鉱探しの資金として必要だと老人が指摘していた金額が達成されました。ロバを買い、銃や食料を手に入れ出発します。シエラ・マドレの山中で若い2人は光る岩を見つけて大喜びしますが、老人からそれはニセの金だと指摘されます。鉱物のことをかじったことのある方なら経験済みのことですが、黄銅鉱を見つけて喜ぶことが多いようです。本当に金はあるのか、もうこれ以上金探しは嫌だと、疲れたドブスが音(ね)を上げたとき、ハワードが金を発見します。

  3人は懸命に金を掘ります。そのうちにドブスが、「見つけた人間による」と言った言葉を忘れ「黄金は人間を変える」になってしまいます。砂金も貯まった、もうそろそろ頃合いだと言う老人に「まだだ」と食って掛かり、険悪な様相を呈してきます。ただひたすら砂金を採り、貯め、「ロバが運べないからこれ以上掘るのはやめよう」と言う仲間にピストルを振り回して続行を命じるドブス。夜中に持ち逃げされるのではないかと、心配で夜も眠れなくなるドブスでした。

  そこへ食料品を買い込んだときからマークしてきた得体の知れない男コデイ(ブルース・ベネット)が跡を突き止め、金探しをしているんだろう。いつまでここでキャンプをしているのだ。仲間に入れろと、テコでも動きません。お互いに得体の知れない3人組みの金探し、老人にかつがれているんじゃないか、と言う不安が緊迫した画面を覆います。突然仲間に入れろと、長居しすぎた報いのごとく現れる飛び入り、先の黄銅鉱の件と言い、金堀りを体験したもののみが持つリアルさがあります。そこへ23人のメキシコ人の山賊が襲ってきます。辛くも撃退できましたが、コデイはあっけなく山賊に射殺されます。この事件でドブスの神経はいよいよ異常にとがってきますし、その気持ちはカーティンにも移って、3人の仲間は猜疑(さいぎ)の目でにらみ合うようになります。ともかく山を下りることになりましたが、採り過ぎた砂金の重みで山下りは難渋を極めます。

  そこをインディオの大群に囲まれます。彼らは砂金には興味が無く、おぼれた瀕死(ひんし)の少年を救ってくれと要求します。山中のインディオの村で、ハワードの必死の人工呼吸と少年の生命力の強さで少年は生き返り、老人は長老として尊敬されその地に残ることにします。ドブスとカーティンは、何ぞ錦繍(きんしゅう)を着て闇夜を行くとばかりに、砂金がこれだけあるのに、自給自足の山中の村になぜいなければならないのだ、と山を下りようとします。その途上で2人はまた疑い合って、撃ち合いとなりカーティンは傷ついたままうち捨てられ、ドブスは重い砂金を運んで難儀を続けました。山賊はちゃっかり待ち伏せしていて、一人になったドブスはピストルの弾も無くなっていて、寄ってたかって刺殺されます。取り囲んで、ドブスのズボンのすそをめくってブーツを値踏みするところが何ともリアルです。靴は低所得者には貴重品ですから、現在でも中南米や南米では強盗は靴も必ず盗ろうとします。息を吹き返したカーティンは老人のところに辛くもたどり着きます。2人で町に出たところ、山賊たちは盗んだロバから足がつき軍隊に射殺されます。

  山賊はドブスを殺して砂金袋をすべて奪いました。袋を切り裂いて出た砂金を金とは知らず、折からの強風に吹き飛ばされて悉(ことごと)く飛んでいきました。
生き残って牢獄(ろうごく)にいる山賊から「砂しか入ってなかった。風で吹き飛んでいった」と聞いた老人ハワードは呵呵大笑(かかたいしょう)します。

  「ファー・ファー・ファー、砂金は土から生まれて土に環(かえ)っていった。こいつはお笑い草だ。人生ってものは金が絡んだとなりぁ、きっとお笑い草になるのさ。ファー・ファー・ファー」。

  日本の「第2の敗戦」は不動産という土と、株券という紙の高騰と暴落が巻き起こしたものに相違はないでしょう。オランダ人がかつてはチューリップの球根に投機価値を見出したように日本人は土地と株券に価値を見つけた(ように錯覚した)わけです。あるいは現代においては、名前を功妙に変えて、デリバティヴ、とかオプションだとか401Kだとか投資信託だ、あるいはオフショアファンドだなどと、多彩に巧みに、黄金に取り付かれた現代人である私たちを誘惑します。

貧困から人類を救済するがために生まれたはずの社会科学である経済学は、いかに人々に物を売りつけるかをマーケティングと称して、数学を駆使して研究に余念がなく、景気を良くするためには消費を喚起するしかないと、商品券を配る政策を実行したりしています。飯田経男中部大学教授はそれを「満腹状態の人の口を、力ずくでこじ開けてもっと食え」とやろうとしていると慨嘆しています。

 所得税を減税して、可処分所得(手取りの所得)を増やして「飽食状態で満腹している消費者に、一体これ以上何を買わせようというのでしょうか」というわけです。黄金を土に環えらせる、という考え方は古くからありました。十八史略には「我をして天下を治むること10年ならしめば、黄金をして土の価に同じからしむべし」との文が見かけられます。映画「黄金」にはジェットコースター・ムービーにはできない、数々のエピソードが散りばめてあります。宝探しの仲間入りをさせろと割り込んできたコデイみたいな人物はよくいます。いかにも「そんな奴っているな」という人物像を典型的に抽出してくるのが、脚本のうまさといえるのではないでしょうか。

  幕切れに、生き残ったカーティンが「テキサスのコデイの妻に遺品を届けに行く」と、老人に告げる場面があります。というのは、山賊に撃ち殺されたコデイのポケットを探ると妻からの手紙があり、「私や子供のために遠くまで働きに行ってくれて有り難く思っています。でも私たちは貴方の言う黄金や首飾りはいりません。皆で仲良く暮らせればそれで良いのです。子供も大きくなってきて、手がかからなくなってきました。家族で農作業をすれば何とかやっていけると思います。早い帰りを待っています」とありましたからです。

  映画はカーティンがそこに居着くことを暗示しています。やはりアメリカ映画で、これまたハンフリー・ボガートが主演している映画「キーラーゴ」はボガートが戦友の遺品を戦友の妻や母親のいる海沿いの家に届けに行き、男手のない家に襲い来るハリケーンから家屋や船を守り、「息子が身代わりに貴方をよこしてくれた。貴方さえよければ、ここにずっといてください」と言われる場面で終わっていました。

  老人がインディオとともに暮らすというところをも合わせて、人生の不条理を人間の善意の力で乗り越えようとする意志が感じられるように思われます。ハードボイルド派といわれたジョン・ヒューストン映画なのですが、何ともいえぬ優しさがあるように思われます。敗戦したということも関係しているのでしょうか、太平洋戦争の後、死んだ戦友の家を訪ねていくという邦画を見たことがありません。

  第2の敗戦といわれる今度の経済不況で、統計に表れぬ自殺も入れるとたくさんの自殺者が出ているようです。しかも今後も続出することが予想されます。一方では、自己破産とそれに伴う離婚といった事柄も増大しています。いったんは蹉跌(さてつ)した男女がめぐり会い、第2の人生を幸せに送ることができたという邦画を見るにはあと何年かかるものでしょうか。

  次回はこの「黄金」の作者、トレィブンのことに触れねばなりません。この覆面作家こそイザヤベンダサンと山本七平の成立に大きな影響を及ぼしたと思われるからです。