ハンセン病と私

~ 太宰治大いに笑う ~

   ハンセン病の元患者の宿泊を拒否した熊本県のホテルに対し、法務局が旅館業法違反容疑で告発したそうです。法務大臣も批判し、熊本県も厳しく断罪。熊本地検も厳しい姿勢で操作に臨むそうです。伊勢新聞のコラム「大観小観」を引きますと

 「ハンセン病を差別するのがいつから人権問題になったのか、もっと早く教えてくれなければ困るじゃないか、と(ホテル側が)言ったらどうなったか。」「ハンセン病元患者を不当に長期間隔離政策をとってきた国や県が、突然誤りを認めたと思ったら、今までの仲間を攻撃し始めたのだから、神国日本から民主主義に一夜で変わった戦後を思い出さないか。」

 「旅館側の認識不足はそのとおりとしても、自分の責任はほうっかむりする権力者の面の皮の厚さは怖い。」
日本人のこうした慣習のようなものはいつの時代から来ているのでしょう。今度の太平洋戦争における敗戦後にも「負けると思っていた」「世界を相手に無謀なことを始めたと思っていた」などの言論を発表している方は多いです。

  こういう後講釈には破綻(はたん)がありません。結果が出てしまってから解説をするわけですから。21年どころか53年前に、太宰治は戯曲「冬の花火」のなかで日本人について痛烈に批判し、疑問を投げかけています。(太宰については別の稿を立てます)

  「いつから日本の人が、こんなにあさましくて、嘘つきになったのでせう。みんなにせものばかりで、知ったかぶってごまかして、わづかの学問だか主義だかみたいなものにこだはってぎぐしゃくして、人を救ふもないもんだ。人を救ふなんて、まあ、そんなだいそれた、(第一幕におけるが如き低い異様な笑声を発する)図々しいにもほどがあるわ。日本の人が皆こんなあやつり人形みたいなへんてこな歩き方をするようになったのはいつ頃からの事かしら。ずっと前からだわ。たぶんずっとずっと前からだわ」

  「つまり太宰は、戦後の変革とは名ばかりで、右といえば右、左といえば左、とみんな一斉に同じ方向へ動く日本人の性質が、昔からまるで変わっていないと見抜いていたのです」-長部日出雄  (以上の太宰治関連の文はすべてNHK人間大学「太宰治への旅」テキストによります)
太宰治が生きていたら、今度の騒動に恥ずかしげに苦笑していたことでしょう。

 9年前、社長に就任した私は県外発送している伊勢新聞をチエックしました。小豆島の療養所に二桁に近い部数の新聞が送られているのは何かの間違いと思い発送を止めさせました。歴代の社長が恵贈しているのが累積してしまったのだと思い込んだのです。
すぐに、クレ-ムがつきました。代金はすべて支払われていたのです。

 私の勝手な想像ですが、こういうことだったのではないかと深く悔悟しました。
元患者さんたちは療養所の中で、出身地を隠し偽名を使っていることもあると聞きます。だから新聞も個人で別々に購読されているのではないか。
いまだに残る偏見に、親族に迷惑がかかるかもしれないから、故郷にも帰り難い。
故郷と自分を結ぶ唯一のものは毎日配達される伊勢新聞だけである。(過分に手前味噌で恐縮ですが)

 そのころ、のちの厚生労働大臣となられる衆議院議員坂口力氏が来社されました。氏は三重大学医学部卒の医学博士です。
伊勢新聞社に来社された坂口議員に、弊紙の県外購読者のことなどをお話し申し上げました。

 後に、厚生大臣になられた坂口力議員は、ハンセン病訴訟の国側の一審敗訴を受けて、控訴しようとしていた厚生省を抑えて、国の過失を認めました。

 これは医学博士である坂口議員だからなしえたことであろうかと信じます。声を大にして顕彰したいのです。(政治家の悪口を言うだけが能ではないのです。)

 1958年に東京で行われた「第七回国際らい学会議」では、強制隔離政策を採用している国がその政策を全面的に破棄するよう勧奨されました。
にもかかわらず、日本国は隔離政策を続け、厚生大臣は謝罪をしてこなかったのです。

 「汝らのうち罪なき者この女を打て」と聖書にあります。

 遠藤周作の「私が・棄てた・女」に出てくるハンセン病と誤診されたヒロインの名はミツでしたね。