「愛知万博」の日本的思考 (97.6)

 来る十二日にパリで開かれるBIEの総会で、愛知万博の誘致の成否が決まります。関係諸官庁・各経済団体は懸命のご努力を重ねてこられました。関係する皆さまの熱意にもかかわらず、私は社長に就任した二年前から深い憂慮を示してきましたのはご承知の通りです。と申しますのは、日本側は当初「新しい地球創造(BEYOND DEVELOPMENT)」というテーマを打ち出し、諸方面の反発を買い、その後「自然との共生・REDISCOVERING THE NATURE’S WISDOM(自然の叡智の再発見)」というテーマに修正して博覧会国際事務局(BIE)に運動してきました。

 元旦号の弊紙の拙論「神々と神」にて指摘しましたように、多神教信者である日本人と一神教である欧米人との間には根本的な断絶があります。昨年九月に日本を訪れたBIEのゴンザレス事務局長は「(開催テーマは)加盟国には理解し難い」と言う言葉を残して帰国しています。カルガリー誘致決定に大きく傾いたと私には思われましたが、愛知県側はそうは受け止めず、補正予算二億五千万円を組んでパリに運動に行き、文字通り花火を上げてきました。

 キリスト教信者から「自然に叡智があるのか」という疑問がでるのは当然であります。自然に叡智があるという考え方は、一神教であるキリスト教を否定するものであります。到底キリスト教国に受け入れられるものではありません。
同様に、「自然との共生」というコンセプトもキリスト教信者には受け入れられません。そういう考え方は「ゴッドが人をつくり、その下に自然をつくった。自然は人がねじふせるもの、屈服させるもの」というキリストの教えに対立するものだからです。

 愛知万博が、欧米主義の世界運営に異をはさみ、仏教的世界観に儒教的思潮を混ぜた資本主義的文明の成功を、世界に真っ向から問いかけるというコンセプトの下に「自然の叡智の再発見」というテーマを掲げるなら、それは日本の存在意義を国際社会においてアピールする意味において、大いに意義あることに思えます。しかし、どうもそうではなさそうです。

 私は名古屋オリンピック誘致活動を思い出します。仲谷義明前愛知県知事を思い出します。栄光と興奮につかれて仲谷知事は誕生しました。当時五十歳の若い知事の出現にだれもが二十年近い長期政権を予感しました。就任二年目にオリンピック誘致を打ち出した仲谷氏は二期目に判明したオリンピック誘致失敗の責任をとって再出馬しませんでした。

 その後名古屋市は二度とオリンピック誘致活動をしませんでした。これは理解し難いことです。名古屋市で開催することに重大な意義があるなら何回でも応募するべきであるはずです。懸命な誘致活動により愛知万博の誘致が実を結ぶなら、関係各位には素直におめでとうと言いたいですが、失敗に終わってもまた応募して頂きたい。本当にやるべき意義があるのなら。

 その時には精神世界で混迷する世界を、日本が導く気概を示すテーマを打ち出してもらうのは無論のことです。