名古屋が生んだ世界的富豪 古川為三郎氏の「ヘラルドコーポレーションを行き詰らせた一人の歯科医」後編

 不況時代、人々は安価な娯楽である酒や映画に走ります。大須の映画館は大繁盛。その稼ぎで周りの土地を買って、肉鍋屋をやるとこれも大当たり。「映画・食堂・喫茶店」と日銭が稼げる従業員が少なくて出来る商売への転換により、1927年の昭和大恐慌をも乗り切ります。第二次大戦後はパチンコ業へも進出し、大きく成果を上げます。

 奥様の古川しまさんもパチンコが好きであったようです。しかも出た玉を打っているお客様に振舞って歩くので有名でした。私事で恐縮ですが、私の叔母もパチンコをしていて、しまさんに玉をもらったことがあると自慢していました。大富豪の奥様に玉をもらうと、運がつくといわれたようです。

 1986年、ヘラルドコーポレーションの三代目社長である為三郎氏の孫にあたる古川為之氏はゼネコンの企画にのって、三重県四日市市郊外の菰野町にゴルフ場を建設しようとしました。折からの好景気に日本中が沸いていたさなかであります。候補地は、熊谷組が航空写真等で選んだ、最高のゴルフ場が作れると折り紙つきのものでした。
今もこのグレイスヒルズカントリークラブは住宅団地が作れると言うほどのすばらしい敷地です。

 この用地買収に立ちはだかった一人の紳士Aさんがいます。四日市市で歯科医を開業している地元の名門の跡継ぎです。代々庄屋の家柄であったという紳士は、遺言で「山は大事にしろ。ふもとの田畑の水の供給源だから。しかも水害から守るのが山だ。」と伝えられて守ってきたのだからと売ってくれません。

 他の用地買収がすべておわったのに、Aさんの用地買収は出来ません。数十億円の金が寝てしまったとうわさされています。1990年にはバブルも崩壊しました。

 1993年、古川為三郎氏は百三歳の長寿を全うします。1988年にはアメリカの経済雑誌「フオーチューン」にも世界最高令の億万長者と紹介された巨人でした。

 ヘラルドコーポレーションの関係者の懇請により、A氏は為三郎氏の盛大なる葬儀に出席します。愛知県知事や名古屋市長、国会議員をはじめとするお偉方と共にVIP扱いを受けた彼はこう決断したといわれています。
「関係者のここまでの熱心な勧めとご厚情に答えるしかない」続けられている減反政策で田畑の重要性がさほどで無くなった事も一因であったでしょう。

 ようやく売ってもらえることになったゴルフ場用地ですが、すでに1996年となっていました。完成して開場したのが200年の4月でした。
関係者は皆が努力し、地主も最終的には協力しました。しかし痛恨事ではありますが、売ってもらえなければゴルフ場建設もなく、ヘラルドコーポレーションの破綻もなかったのではと一抹の恨みが残ります。勝手な言い草をお許しいただきたいのですが。負債総額300億円のうち270億円がゴルフ場関連の負債だそうです。

 同社に170億円の債権を持つのがUFJ銀行です。東海銀行と三和銀行が合併して出来た銀行でありますが、三和銀行が大きな力を持っていると、巷間伝えられています。大阪の三和銀行にとっては、「古川?ヘラルド?なんだそれは。」
といったところがあったのではないかという気がします。
資産4兆3000億円と称された為三郎帝国は終焉(しゅうえん)しました。時代の流れでありましょう。

   ここで個人的な思い出を二つ語らせてください。

 一つはヘラルドコーポレーションの事業である喫茶軽食部門のブランドであるベルヘラルドです。これは筆者が存じ上げていた喫茶洋菓子のベルが行詰まった際、ヘラルドに肩代わりしてもらった事業部門です。ヘラルド破綻の後も洋菓子喫茶部門は脈々として続いていくようで感に堪えません。

 二つ目に、かつて名古屋市錦の高級クラブで大竹愼一氏のおともをしたときのことです。超美人の大柄な美人が来週からメキシコに行くと言いました。数週間前メキシコから帰ってきた私はピンときて、ロス・カポス(リゾート地)行きかと聞きました。「当たり。」と嬌声が答えました。

「誰と行くんだ。」
「あててみて」
「今どき、あそこに連れて行けるのは名古屋では一人しかいない。為三郎か。」
「半分ピンポーン。ため・・だよ。」と答えが返ってきました。

 この税制では昔からの金持ちはいなくなりますね。皆様のご活躍を期待します。私たちは情報面でお手伝いします。