斎宮研究の最前線に迫る 復元建物でシンポジウム 明和町

【斎宮を復元した「西脇殿」で開いたシンポジウム「今一番新しい!斎宮の歴史」=明和町斎宮で】

【斎宮を復元した「西脇殿」で開いたシンポジウム「今一番新しい!斎宮の歴史」=明和町斎宮で】

【多気郡】斎宮歴史博物館は二十日、明和町斎宮の「さいくう平安の杜」西脇殿でシンポジウム「今一番新しい!斎宮の歴史」を開いた。同館の研究者四人が最新の発掘成果を交え斎宮史の画期を語り、討論会「徹底討論!斎宮、歴史の論点!」を繰り広げ、約百人が聞き入った。

 国史跡斎宮跡の調査研究の最前線を知ってもらう狙い。あいさつに立った榎村寛之学芸普及課長は、「会場は一千二百年前の斎宮寮庁を復元した建物。隣の竹神社に斎王さんがいた」と話し、「今日の発表内容は完成に向けて磨き上げる途中のもの。ライブ感覚を楽しんでほしい」と呼び掛けた。

 調査研究課の宮原佑治主任は、一―三月に調査した奈良時代の斎宮中枢の発掘で、塀や柵で囲まれた二つの空間が東西に見つかり、西側は近鉄線路をまたいで南北約五十六メートル、東西約四十八メートルになると説明した。両空間について、「斎王の宮殿と斎宮寮中枢か、斎王の宮殿が斎王の代替わりごとに西から東など場所を替えた可能性がある」と推測した。

 同課の穂積裕昌主幹は斎宮が明和町に立地した理由に迫り、「大和王権が東側に行く時の外港として万葉集に出てくる『的潟』があった。多気郡は大和と関係が深い地域だった」と指摘。宝塚古墳の船形埴輪(はにわ)は大和王権の影響が強く、船上に太刀ややり、王者の椅子などが並ぶ「支配権の象徴の武装船」と表現した。

 的潟推定地そばの佐久米大塚山古墳からは「金ぴかのかぶとが出てきた。現在はニューヨークのメトロポリタン美術館にある。出土例は全国十個もない。仁徳天皇陵と言っていた大仙古墳からも出ているので、それに匹敵する」と強調し、被葬者は「港湾管理者として大和王権から支配を任せられていた地域の大きな豪族」と見て、斎宮立地の基盤を説いた。

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