個性が磨かれる人生の選択を

小学6年生時の1985年11月1日、いつものように学校で過ごしていた私は担任の先生に呼び出された。また説教か、と思っていた私に告げられたのは父の訃報であった。大好きな父親の存在がこの日を境に、これまでの楽しい思い出と、訃報が届く数日前に届いた葉書の言葉のみとなった。「一生懸命にサッカーを頑張れ、活躍しても謙虚な気持ちを忘れるな」

私は父の死とその葉書の言葉をきっかけにプロサッカー選手を目指そうと考えたのかもしれない。プロサッカーリーグが存在しない時代に、なぜ自分がプロサッカー選手を目指したのか我ながら不思議だったのだが、今振り返ると私がプロサッカー選手を志すように父が導いてくれていたように思う。

人生の岐路において自分で人生の選択をするということは成長過程において非常に重要である。なぜなら、悩み決意するまでのプロセスで自分自身と向き合い、導き出された将来像に向けて責任をもって努力することになるからである。

現在私は、三重県国体成年男子サッカーチーム以外に4つのサッカーチームに関わっている。その内の3つは小中学生を対象にしたチームで、3月に各チームで「感謝を伝える会」と題した卒団式が行われた。式は非常に感動的で、合計43名からなる卒団生が次の道へ進む頼もしい姿が多く見られた。

卒団生のなかには、親元を離れ県外のサッカー強豪校に進学する子もいれば、三重県内の学校に進学する子もいる。また、今年は医者を目指して県外の中学校へ行く子もいた。皆それぞれ、自らの将来像について熟考し最終的には自分で進路選択してくれたはずである。

小学6年生になった私はヤンチャが過ぎる先輩や同級生が通う地元の中学校には行かずに、得意のサッカーをさらに伸ばせる他の地域の中学校に転入することを決意していた。そのような形での転入は前例も少なく、また、現在とは違ってインターネットもない時代であるから、自分の進むべき道に関する情報が全くないという状況であった。しかし、その当時なぜか不安な気持ちはなく、他の人には味わえない責任重大なミッションに挑めるような気持ちで、自分自身を頼もしく感じていた。「自分で決めたのだから」私はそう考えていた。しかし、実際は私が不安を感じずに決意して行動できるように、周りの大人が配慮してくれていたのだろう。そして、生前の父の私に対する言動によって自然とプロサッカー選手を目指すように導かれ、私もそれに気付かない間に納得し身を委ねていたのだと思う。

「子供が決めること」と言いつつ親の価値観が子供の判断に大きく影響を与えることは多い。子供は挑戦の天才である。もっとも、自らを成長させる自分にあった挑戦の場を見つけ出すことは苦手としている。だからこそ、人生の岐路に立った子供達に寄り添い励まし、彼らの内なる声に耳を傾け、その可能性が広がる方向へ自然と導くことが保護者や指導者の務めの一つではないかと思う。

中田一三
中田一三

なかたいちぞう 1973年4月生まれ。伊賀市出身。四日市中央工業高時代に、全国高校サッカー選手権大会に3年連続出場。92年1月の大会では同校初優勝をもたらし、優秀選手に選ばれた。中西永輔、小倉隆史両氏と並び「四中工の三羽烏」と称された。プロサッカー選手として通算194試合に出場。現在三重県国体成年男子サッカー監督。