<51>本居宣長記念館(松阪市)

 来週4月2・3日は、国史跡松坂城跡などを舞台に「宣長まつり」が開催されます。ということで、今回の「博学〜博物館で学ぶ〜」は本居宣長記念館を特集しましょう。
 前回紹介した松阪市立歴史民俗資料館と同じく、松坂城跡に建つ博物館です。すぐ隣に、本居宣長が12歳から亡くなる72歳まで過ごした旧宅・鈴屋が移築されていて(右写真)、宣長のすべてを味わえる博物館となっています。
 今年7月から約半年間、改修工事を行うため休館する予定です。リニューアル前最後の企画展「もう一度、のりなが」が現在開催中(6月30日まで)です。改修前に、一度訪れてみてはいかがでしょう。

◆「日本とは何か」を生涯かけて追及した宣長
 本居宣長の代表的な功績は、『古事記伝』(右写真)を著したことではないでしょうか。当時誰も正しく読むことができなかった『古事記』を解読し、その注釈書として刊行したものです。「因幡の白兎」など、今に伝わる有名な神話も、宣長がその時に掘り起こして世に知らしめたもので、宣長がいなかったら現代に伝わっていなかったかもしれません。
 なぜ、宣長は『古事記』の解読、研究をするようになったのでしょうか?それは「日本とは何か」を追求していく過程で、たどりついたのが『古事記』だったからです。
 小さい頃から宣長は日本が好きで日本に興味を持っていました。当時は儒学や漢学など、外来の学問が流行っていた時代で、そうした学問からは日本本来の姿は見えないと感じ、それらが伝来する前までさかのぼっていき、たどりついたのが『古事記』だったのです。
 『古事記』は、日本国家の成り立ちを記した歴史書です。天武天皇が語った日本の歴史を稗田阿礼が記憶し、太安万侶が漢字で書き記したもので、この解読こそが日本本来の姿にたどりつけるものと信じ、『古事記』の研究解釈に精を出したのです。

◆国学者として大成したが、商才はなかった宣長
 宣長は松坂の木綿商の家に生まれ、通常であれば商売を継ぐはずの人間でした。しかし幼少の頃から商売よりも本を読むことが大好きな少年でした。早く商人になってほしいという周囲の期待もあって、16歳の時に江戸へ商人修行に出ましたが、性に合わず、わずか1年間で松坂に帰ってきました。その後2年間引きこもるという、荒れた青春時代を送ったようです。
 そんな心理状態が日記からもうかがえます。宣長は生涯、さまざまな書物や日記を記しましたが、書かれた文字はおおむね端麗で、非常にきれいな字を書く人物ですが、江戸修行時代の日記は文字が乱れ、しかも記述がものすごく少ないのです。
 後に京都へ医学修行に出ましたが、幼いころから憧れていた京都にいる間の日記は、いきいきとした筆致で芝居や当時の京都の流行などを書き記していて、とても楽しい毎日を送っていたことがうかがえます。
 やはり宣長は商売は好きではなく、肌に合わなかったようです。

◆誕生から死去まで、すべての記録を残した宣長
 宣長は、生まれた時から死ぬまでのすべての記録が残る、まれな人物でもあります。宣長が13歳の頃に書いたとされる日記に、自らの誕生秘話を書き記しています(右写真)。父が子供を授かるよう、奈良県の吉野水分神社に祈願し、その時授かったのが宣長だった、というエピソードから宣長の日記は始まっています。
 事細かに記された日記を見ると、その時その時の考え、気持ちなどが手に取るように分かるようです。まるで後世の人たちが見るであろうことを意識して書いたようでもあります。
 これだけの文章を残した宣長は、やはり類まれな文才の持ち主だと言わざるを得ません。

 3月27日付の伊勢新聞「博学」コーナーでも、本居宣長の秘密に迫ります。
 本居宣長は、松阪にいながら古典研究に励んでいました。研究のためにはさまざまな情報が不可欠ですが、松阪にいながら宣長のもとには膨大な情報が集まってきました。今では考えられないことですが、そのメカニズムが非常に面白いのです。その詳しい内容は・・・27日付の新聞特集をご覧ください。

 次回の「博学〜博物館で学ぶ〜」は、五桂池ふるさと村 花と動物ふれあい広場(多気町)を紹介します。WEBは4月2日(土)更新、新聞特集は4月3日(日)掲載予定です。

<施設案内>
本居宣長記念館
開館時間9:00〜16:30
休館日月曜日(祝日の場合は翌日)、年末年始
観覧料 一般大人400円、大学生300円、小中高生200円
団体大人300円、大学生200円、小中高生100円
※団体は30名以上

松阪市殿町1536-7 〒515-0073
TEL 0598-21-0312
http://www.norinagakinenkan.com
伊勢自動車道松阪ICから車で約10分
JR・近鉄松阪駅から徒歩約15分





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