<22>輪中の郷

 9月1日は防災の日です。
 近年阪神大震災や中越地震、東日本大震災など、全国各地で大災害が起きていますが、この三重県でも大きな災害は起こり得ます。今から56年前の昭和34(1959)年9月、伊勢湾台風による災害で、県内各地で多くの人が犠牲になりました。特に、輪中で有名な旧長島町(桑名市長島町)は、伊勢湾台風で町のほとんどが水没するという大きな災害に見舞われました。
 この地は歴史上たびたび水害が起こってきた土地で、人々は災害とともに暮らしてきました。災害に対する知恵や心構え、そしてみんなで災害に立ち向かうため組織的な共同体を成立させました。博物館「輪中の郷」では、そんな歴史を今に伝えています。
 30日(日)付けの伊勢新聞「博学」コーナーでは、輪中という、水防と治水を司る共同体について紹介します。
 このページ「博学WEB」では、そんな輪中で繰り広げられた、人と水との戦いの歴史について、一部紹介しましょう。

◆薩摩義士による治水工事
 木曽三川河口部に広がる旧長島町は、川がたびたび氾濫を繰り返すなど、水との戦いの歴史でした。
 江戸時代には木曽川をはさんだ対岸に、尾張藩主徳川義直によって全長48kmもの大堤防がつくられました。しかしこれは尾張藩領を守るために囲った堤防だったため、かえって堤防西側の輪中地帯が洪水で苦しめられるはめになりました。
 江戸中期、度重なる木曽三川の氾濫に苦しむ農民たちの陳情を受け、江戸幕府は薩摩藩(鹿児島県)に治水工事を命じました。宝暦4(1754)年、薩摩藩家老の平田靭負が総奉行となり、工事に着手しました。
 しかし工事は難攻を極めました。多くの藩士や人夫が犠牲となり、また40万両(現在でいうと数千億円)もの莫大な資金を投じる結果となりました。工事終了後、平田靭負は、藩に対して莫大な出費をかけたこと、多くの犠牲者を出したことに対して責任を取り、自害したとされています。

◆ヨハネス・デ・レーケによる明治の大改修
 明治時代に入ると、治水・灌漑大国として知られるオランダから技師ヨハネス・デ・レーケを招いて、河川改修構想がつくられました。その計画をもとに明治20(1887)年から24年間の歳月をかけて工事が進められました。
 木曽・揖斐・長良の三川を完全分流させるなど、複雑だった川の流れをすっきりときれいにし、現在のような地形にしました。そのおかげか、明治20年以降木曽三川の氾濫による水害は一度も起きていません。

◆伊勢湾台風で町全体が浸水
 左写真は、昭和34(1959)年9月28日の伊勢湾台風直後の旧長島町を上空からとらえたものです。輪中堤など一部を除いて町のほとんどが水没しています。これが伊勢湾台風による災害の実態です。海抜ゼロメートル地帯、つまり海水面より常に低い土地では、ひとたび水害が起きたら町全体が水没することになり、甚大な被害が発生します。
 実は海抜ゼロメートル地帯は旧長島町だけではありません。右写真に見える、青い範囲が海面より低い土地なのです。ということは、津波や水害などで浸水したらこれら全体が水没するというとほうもない事態が起きえます。どこへ逃げたらよいのでしょうか。
 旧長島町周辺は、そのような危険と隣り合わせの土地なのです。

 次回は、志摩市歴史民俗資料館を紹介します。WEBは9月5日(土)更新、新聞特集は9月6日(日)掲載予定です。

<施設案内>
輪中の郷
開館時間9:30〜16:45
休館日月曜日(祝日の場合翌日)、年末年始
観覧料 個人大人(高校生以上)310円、小人100円、5歳未満無料
団体大人260円、小人50円(20人以上)

桑名市長島町西川1093 〒511-1102
TEL0594-42-0001 FAX0594-42-0133
http://www.waju.jp/index.html
JR・近鉄長島駅から車で約10分
東名阪自動車道長島ICより車で約5分





[戻る]      [トップ]      [ホーム]