日本本土を焼き払う企画を実施させた建築家<上>

ハーグ条約違反だった無差別空襲 日本家庭の半分が困窮の極みに

 今年も8月15日がやってきます。この日はお盆の中日ですが、同時に終戦記念日でもあります。正確には前日の1945年(昭和20年)8月14日に日本政府はポツダム宣言・無条件降伏要求の受諾を連合国に通告しており、翌8月15日の正午の昭和天皇による終戦の詔書、いわゆる玉音放送によって日本の降伏が国民に公表された日です。夏の全国高校野球大会の放送で、毎年この時間になると黙とうをささげるので、この日この時間を実感する方も多いのではないでしょうか。

 荻原枯石による「八月や六日九日十五日」という俳句があります。六日は広島に、九日は長崎に米軍の爆撃機により原爆が投下された日です。今年、NHKがおこなった世論調査では、この広島、長崎の被爆日を正しく答えられなかった方が7割近くも居たそうです。戦後70年も経ると実際に戦地に赴いた方々や当時の世相を知る方々も齢90歳を超えられており、太平洋戦争の出来事を直接当事者から聞き取りできる機会も徐々に失われつつあることが実感されます。

 太平洋戦争は1941年(昭和16年)12月7日に宣戦布告なきまま、マレー半島上陸戦、およびハワイ島真珠湾への米太平洋艦隊への奇襲攻撃により開戦しました。翌年の42年5月までの約半年間は、英国の支配する香港、シンガポール、フィリピンの米軍部隊まで降伏させるという勢いでしたが、6月7日のミッドウェー海戦において日本海軍機動部隊は空母4隻が撃沈され大敗します。このミッドウェー海戦の失敗により、日本の太平洋戦争を維持する戦争遂行能力は実質的に失われ、そこから終戦の45年8月まで3年以上もの間、日本軍の戦局は著しく後退し日本の国力は消耗し続けていくことになります。

 実はその二カ月前の4月18日に米軍による爆撃が既におこなわれていたという事実があります。太平洋上の空母から飛び立った米軍爆撃機が、東京市、川崎、横須賀、名古屋、四日市、神戸を爆撃したのです。空襲による死者は100名、重軽傷者も500名、家屋300戸弱の被害が出ました。国際法上禁止されている非戦闘員に対する攻撃、民間人への機銃掃射もおこなわれ小学生も数名死亡しています。この爆撃は作戦指揮官である米軍のドーリットル中佐にちなみ「ドーリットル空襲」とも呼ばれますが、散発的な爆撃とはいえ、本土を直接空爆されたことによる国民のショックは大きく、戦争は外地で展開するものと考えていた国民に不安感が広がりました。結果としてまったく本土防空の重要性を懸念していなかった軍部への批判が焦りを生み、日本近海への米軍空母の進出を阻止するために、米海軍機動部隊殲滅(ざんめつ)のための全面対決を目指し、その後のミッドウェー島とアリューシャン諸島占領の両面作戦という、強引かつ拙速な作戦行動につながったともいわれています。

 政府はこの空襲をうけ防空都市化を推し進めようとしました。木造家屋が多く道路が狭いために爆撃による火災での延焼が懸念されたからです。道路の拡幅工事のため強制的に立ち退きを含め、木造の民家の取り壊しが各地で急きょ行われることにもなりました。

 しかしながら、この時点で国民の大半は日本の本土全域に空襲がおこなわれるとは夢にも思っていなかったのです。

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 空襲というのは上空の航空機から爆弾を落とし敵軍地上部隊を攻撃するという局地戦術の一つです。この軍対軍の爆撃のことは戦術爆撃といいます。

 第一次大戦後の航空機の進化により、1930年頃から「制空」という概念が想起され、爆撃は、敵軍のみならず、敵の銃後、軍人ではない一般人の住宅地や商業地を破壊し、敵国民の志気を喪失させる殲滅作戦を提唱する者も現れました。これを戦略爆撃といいます。

 しかし、戦略爆撃は本来禁止です。

 「戦争とはなにか?」ということを突き詰め、近代戦争を分析し理論的に定義した19世紀初頭のナポレオン戦争時代のプロイセン王国(今のドイツ)の将軍、カール・フォン・クラウゼヴィッツは、その大著「戦争論」の中で「戦争は他の手段をもってする政治の延長にほかならない」と喝破しています。

 「戦争」のことを、一見無秩序な殺し合いであるかのようにわれわれ一般人は理解していますが、それは「反乱」で「戦争」ではありません。歴史において植民地独立戦争のことを、宗主国は「反乱」と呼び、独立軍は「戦争」と呼ぶのはそういう理由です。「戦争」と呼んだ瞬間、独立軍の正統性、独立政体を宗主国側は認めてしまうことになるからです。「戦争」とは本来、政治的駆け引きをおこないながら、軍事のプロとプロの間で行なわれる外交上の最終オプションです。だから、戦争といえども国際的協約、ルールといったものが存在しています。そして、この条約は現在でも有効です。ハーグ陸戦条約といい、日米ともに1900年代初頭に加盟しています。

【ハーグ陸戦条約】 第二款 戦闘 第一章 害敵手段、攻囲、砲撃 第22条:交戦者は無制限の害敵手段を使用してはならない。 第25条:無防備都市、集落、住宅、建物はいかなる手段をもってしても、これを攻撃、砲撃することを禁ず。

【カーチス・ルメイ少将】  太平洋戦争当時の日本の諸都市は「無防備都市」であり、軍事目標以外を無差別絨毯(じゅうたん)爆撃をすることは国際法違反であることは明らかなのです。それを遂行したのが米軍のカーチス・ルメイ少将です。彼の言葉がいくつか残っています。爆撃に赴く搭乗員に対し

 「君が爆弾を投下し、そのことで何かの思いに責め苛まれたとしよう、何トンもの瓦礫(がれき)がベッドに眠る子どものうえに崩れてきたとか、身体中を炎に包まれ『ママ、ママ』と泣き叫ぶ三歳の少女の悲しい視線を、一瞬思い浮かべてしまっているに違いない。正気を保ち、国家が君に希望する任務を全うしたいのなら、そんなものは忘れることだ」

 いくら戦争とはいえ、この任務そのものがハーグ条約違反なのです。

 結局45年8月の終戦までの5ケ月の間に、主要都市だけでなく現在のJRで急行が止まりそうな駅のある場所はほぼ全部、200以上の街が爆撃されました。

 死者は33万人、負傷者は43万人、被災人口は970万人に及び、被災面積は約1億9100万坪、日本の総住戸の約2割の223万戸が燃えました。当然ながら、多くの国宝・重要文化財が焼失し、一説によれば文化財の9割以上が焼失したとも言われています。各家庭に所蔵の絵画や掛け軸、襖絵や漆器や着物なんかを想像すればこれらの文化財も途方も無い損害です。死者・負傷者合わせ80万人が被害にあったということは、家族のことを考えてみれば日本の家庭の半分以上がこの空襲開始から5カ月で一家離散や生活困窮の極みに落とされてしまったのです。(建築エコノミスト)

カーチス・ルメイ少将

森山 高至

建築エコノミスト、一級建築士。1965年岡山県生まれ。早稲田大学理工学部建築学科卒業、同大学政治経済学部修了