2019年1月28日(月)

▼四日市公害訴訟の原告で唯一の存命者だった野田之一さんが死去した。そこにただいるだけで、周囲を粛然とさせた。まさに巨星墜つの感が強い

▼筆者が三重に赴任したのは昭和58年末。県庁にすでに公害局はなく、四日市公害のイメージをぬぐい去り、よみがえった大気をアピールしようとしている時期だった。担当部は生活環境部。すぐ健康環境部と名を変え、やがて「環境」の名称そのものがなくなる

▼復活した時はこの言葉に込められた公害のニュアンスはなかった。公害患者を多く治療した県立総合塩浜病院の移転新築で、跡地に三重北勢健康増進センターが設立された。公害の記憶を風化させないアイデアもあったが、公害のイメージを残すことに、地域でも賛否があった

▼野田さんの活躍の場はどうだったか。県政を担当していて、お目にかかる機会はなかった。フェロシルト事件で、四日市公害の原因企業であるにもかかわらず、野呂昭彦知事(当時)は当初、上場企業がそんな不誠実なことはしないという姿勢だった。県政の変化を物語っていた

▼四日市公害と環境未来館が設立。紹介文に「市民、企業、行政が一体となった努力の結果、現在の環境を取り戻すことができた」。その後も、行政は一体だったか。企業が排出する汚染物質の情報公開を萩原量吉元県議らが求めたのに対し、県は企業への意見照会を待つよう回答した。「汚染物質」である。公害を出す企業の一掃に取り組んだ熱気はない

▼四日市公害の教訓は見直されている。野田さんにはもうしばらくにらみを利かせていてほしかった。