<まる見えリポート>玉城町の神宮摂末社と国束山 眺めは違うが共通の形

【(上)上田之家神社から見た国束山の尾根=玉城町矢野で(中央)棒原神社から見た国束山と蚊野神社(手前左の森)=同町上田辺で(下)朽羅神社(手前の森)と国束山(左奥が山頂)=同町原で】

三重県度会郡玉城町の国束山(414メートル)の麓に点在する伊勢神宮の摂末社6社から国束山を眺めると見え方は違うが、共通して中央が三角すいで、左右に山並みが後ろに控えるか手前で交差している。「神山」の典型的な形で、山の「正面」と言え、山から神を迎え降ろす聖地が神社となったようだ。(松阪紀勢総局長・奥山隆也)

大分県の古代史研究家、井上香都羅氏が全国の弥生時代の銅鐸(どうたく)出土地や縄文・旧石器時代の遺跡約1000カ所を踏査し、全て神山と向き合っている立地を確認する中で、おむすび形の山が真ん中にくる神山の一般的な形を明らかにした。「銅鐸『祖霊祭器説』」(平成9年、彩流社)や「古代遺跡と神山紀行」(15年、同)の著書で実証している。

井上氏は「神社が古代の神山を拝する祭祀の場に建てられている」「神山自体を祀るのではなく、山に宿った祖霊神を祀っていた」と解明する一方、「現在は、自分の祀る神社に神体山のあることが分からなくなっている神社が多いようです。神社の周りが林になって、神山が神社から見えなくなっているケースもあります。これは、長い時代の間に祭祀の形式が変わり、古代祭祀の原形が分からなくなったためでしょう」と指摘している。

宗教学者の薗田稔京都大学名誉教授が著した「神道の世界」(9年、弘文堂)では、「祖先でもある神々を、定期的に自分たちの生活の場にお迎えするのがお祭り」「神の鎮まる奥山があります。その奥山から町にある里宮に神様をお迎えする」と説明している。

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国束山の神山としての眺めは見る方向に応じて3種類あり、景観を共有する神社は、①津布良神社(玉城町積良)田乃家神社(同町矢野)②蚊野神社(同町蚊野)棒原神社(同町上田辺)③朽羅神社(同町原)御船神社(多気郡多気町土羽)―の3群に分かれる。背後の山並みの中央に尾根筋が浮かび上がるほか、手前の山裾が交差する中心点に国束山の山頂が位置する。

内宮末社の津布良神社を除き、いずれも内宮摂社。摂社は伊勢神宮が鎮座する前からあった土地の神々とされ、10世紀にまとめられた全国の神社の一覧表「延喜式神明帳」に載り、1000年以上の歴史がある。

伊勢神宮は内宮と外宮の正宮に加え、伊勢市を中心に4市4町に広がる別宮14社▽摂社43社▽末社24社▽所管社42社の計125社の集合体。玉城町は内宮禰宜(ねぎ)、荒木田氏の発祥地のため摂社10社、末社3社と多い。

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津布良神社近くの谷には荒木田氏の祖霊が宿るとされてきた聖地が残り、「拝み所」と呼ばれ、山腹の石段を上がると巨石がある。「山宮祭」の祭場となってきた。

日本民俗学を創始した柳田国男はこの山宮祭を材料にして昭和22年に「山宮考」を書き上げた。人が死んだら魂は山の上空に昇って子孫を見守るという信仰を推定し、「祭って居る神が、遠い先祖の霊だったことは判り、それが一定の期日を約して、山から降って来られる」「山の峯の前後左右は天つ空であったこと、又一つには次々の子や孫が、なほ同じ路を過ぎて高い處へ、昇って行くものと見られて居た」と書いている。

敗戦2年後の著作は、「他日再び此国の民生を豊かにすることが出来るならば、それを眺め見おろしつつ、あの悠々たる白雲の彼方に在って、欣喜する者は恐らく私たちであらう」と、自分と読者の死後を見据え締めくくっている。

ただ、「大事な諸点のまだ見落されて居るものが無いとは言へない」と記す通り、山宮祭の対象の山について明示がなかった。神山の一般的な形の発見を通じ、それが分かった。